乾坤一擲
(120号 H.12.3.17. 発行)
オリンピックの女子マラソン代表3人が決定した。12
日に高橋尚子さんは22 分台の記録を出して、その3人の枠のなかに、文句なく入った。その前、いい記録を出していた弘山さんは、残念ながら選ばれなかった。4人出せばいいのに、と思うのだが、各国出場枠が3人ときまっているんだろうか。基準がよくわからない。補欠には無名の選手が選ばれた。それにしても、日本女性パワーの凄さには、驚く。このままでは、記録の伸びは天井しらずである。800M走らせるのさえ、大変だった時代は嘘のよう。戦後、強くなったのは、「女性と、靴下」、といわれ、その後、靴下よりも、女の人が、ぐんぐん強くなっていった。「口では女にはかなわない」と、口喧嘩の勝負には一目置くが、その他では男が上だと、男は一時、思い上がっていた時代があった。それも、ずーっと昔のことで、今は、世界に通用するのは、男よりも女。東大でも女性の占める割合が多くなった。やりだすと、女は凄いんだ。それは、デビ夫人のテレビへの登場でよくわかる。どのくらい前か、赤坂のナイトクラブのホステスさんから、インドネシアの大統領の目にとまり、乞われて第三夫人へ。日本では、俗に言う「お妾さん」だが、国のシステムが違うと、正式な「3番目の奥さん」なのだ。「玉の輿に」乗って、海を渡って、異国の「国王」のお嫁さんになる。それが、大統領失脚後、どこでどうやっていたのか、あまりマスコミにも登場していなかったのに、にわかに、脚光を浴びだした。資産は、計り知れないほど持っているらしい。フランスの社交界では、数々の浮名を流し、あることからフランスの女性と口論になり、相手にガラスの入れ物を投げつけ傷を負わせ、投獄。そんなこと何のその、日本にやって来るや、「サッチー、ミッチー」の歴史的な「女の戦い」に参入し、一躍、テレビ界を蹂躪してしまった。見事というほかはない。徹底して、相手を、やり込めるのである。その激しさは、今までの日本女性のどなたも太刀打ちできない。トークバトルでは完全に男性を圧倒。この方は、単身、海を渡って、こうやって、生きてきたんだろう。いや、生きるすべを身につけたのだ。人は、「かくあれば、かくなるもの」、である。その反面、昨今、日本は、人を頼りに自立しない「パラサイトシングル」という、不思議な人間ばかり、バブルに浮かれて作ってしまった。男女とも、ちょっと気になる現象である。 |
(102号 H.11.6.23. 発行)
去年の今頃はまだ高校野球の選手だった少年が、プロに入って、すごい騒がれ方である。【松坂効果】というんだそうだ。登板すると球場はあっという間に満員になってしまう。関連したグッズはすぐに完売。親会社の西武は、これを上手に商売に使い、関連ホテルの集客作戦で、【松坂大輔】と同姓同名なら宿泊一泊無料、一字でもあれば何割か割引サービスという、キャンペーンを発表した。まだ18
歳。あと五年もしたら、160キロ台の速球は何時でも出せるだろうという逸材である。野球を知らなくても、【松坂大輔】を知らない人はいない。この【松坂現象】によって、一時、少年たちのスポーツへの関心がサッカーに傾きかけていたものを、また、野球がとりもどしつつあるようだ。■もともと、野球は日本人の体質によく合っている。娯楽が少なかった時代、集まると、少年たちの遊びは日本中どこでも三角ベースの野球だった。職場でも、地域でも、野球はコミュニケーションの道具だったのだ。ところが、この『国民的人気の野球』の開催をめぐって、最近、すったもんだあったのが、全国都府県議員団野球大会である。毎年開催される国民体育大会の前夜祭は、どうしてかこの『議員さんの野球大会』と決まっているのだ。その費用が、すべて税金を使って行われていることが、全国の市民オンブズマンから追求されてあきらかになった。大手の証券会社や銀行がばたばたと倒産し、失業率がどんどん高まってる時代なのに、公費で、しかも準備はすべて自治体の職員を使う、これは一体どうしたことだ、となったわけである。去年の神奈川県主催の国民体育大会のこの『前夜祭』がきっかけ
だった。やめろやめない、と始まった。議員側は『公務』だと主張して譲らない。「それならば、公費参加と、自治体職員を大会のために使わない、という条件つきならば、どうぞおやりください。だけど、言うことを聞かなければ、住民監査請求や住民訴訟を起こしますよ」、という警告を発してにらみあった。これがテレビや新聞に取り上げられると、さすがの議員、自治体側もことの次第に驚いて足並みが乱れ出した。参加を中止した県・議員、職員ともに私費負担《職員の分は議員が負担》して参加するとした県・議員だけでも私費負担とした県・どうしても公費で頑張るとした県・「答えられない」と突っ張った県・意見が別れてしまった。まあ、去年の神奈川大会は雨で中止になってしまったが、『親睦議員野球大会』騒ぎは、議員、および、自治体の『公務』に対する認識を、世間にさらけだしたという点で、おおきな意味があった。国民体育大会、それと一体となった『議員さんの野球大会』、《職場の親睦感覚》では、この時代だれも、その催しに拍手は送らない。 |
都知事選のバトルロイヤルは、直前に名乗り出た石原慎太郎さんの圧勝で幕を閉じた。政党というのはまったく何の役にもたたなかった。明石さんは勝ち目ないと判断し、出馬を諦めて、小渕さんに、お断りにのぞんだのだが、説き伏せられて、「ノー」が言えなかった。結果、惨敗。柿沢さんは、自己過信。「行政のエキスパート」のキャッチコピーも、組織を棄てた組織人では無党派層にアピールしない。鳩山さんは、石原さんが出なければ、長年の夢が、実現していただろう。「ハト」だと自ら、「タカ」を攻撃していたが、面相やや強面。助っ人の青島都知事が選挙カーに乗って、かえって票を落としてしまった。作戦終始一貫せず、所詮、音羽御殿の「蝶マニア」のお坊っちゃまだった。舛添さんは、善戦だろう。大学の先生ではここまではいかない。テレビ時代の申し子は、あちこちでかなり人気があった。あれだけ取れば、衆院選出馬へ意気軒昂といったところ。負けても、舛添さんが一番得をした。共産党の三上さんは、自民党の明石さんを猛追。党執行部を震え上がらせた。これだけでも、この人の出馬は大きな意味があったに違いない。それにしても、この「男の闘い」は、石原軍団
の演出に一日の長あり、他の候補者たちは、石原さんの引き立て役にしかならなかった。無党派層に媚びているわけでなく、むしろ強烈な、鮮明な「言葉」で、メッセージを送り続ける。無能だった青島都政のアンチテーゼとして、街頭での石原演説は、都民の胸にぐさっと突き刺さる。「強い男」の勝利だった。だが、真価はこれから。あの西新宿の巨大な「伏魔殿」がどう変わるか。ドラマはこれからである。■世間の耳目が、「男の闘い」に集まっている間、壮絶な「女のいくさ」が始まっていた。野村サッチーと浅香ミッチーの登場である。たまたま、浅香光代さんが、ラジオ番組降板のインタビューで、「野村沙知代っていやなやつ」といったのがきっかけ。あちこちから、息をせききったような、サッチー・バッシングである。野村阪神は、とたんに、7連敗。「女房も監督出来ないのに、野球の監督ができるのか」と、とんだトバッチリである。そもそも、ずっと前、南海ホークスの監督を解任されたのは、この奥さんの公私混同のビジネスが原因だった。石持て追われ、ヤクルトで男になり、サッチーさんも蘇ったのだ。野村監督の懐の中では通用する独特の振る舞いは、世間では総スカン。水着
でメリーゴーランドはそろそろおやめになって、このへんで大阪の単身赴任の旦那様のところにお戻りになったほうがいい。 |
政党助成法はザル法だそうである。国民にひとりあたり250円を負担させて、300億円が国会議員の数に比例してそれぞれ政党へ配分される。そのお金は何に使ってもいいということらしい。中島洋次郎代議士が逮捕された。その助成金の支部分配金、2000万円の一部を私的に流用し、ニセの領収書でごまかしていた。秘書が給料未払いで、訴訟を起こした。第一秘書にきちんと給料をはらわなかったので、払え払わないの内輪もめ、である。そこでみんな内情をバラしてしまったのである。内輪もめさえなかったら、と身内は、切歯扼腕しているという。公金を私的に使う、というのは当たり前の世界らしい。戦後最悪といわれる経済・金融危機の真っ只中、政治は何をしなければならないのか、そのリーダーシップが問われている最中なのにである。■平成6年、政治改革法が成立した。「政治と金」をめぐって不祥事があとをたたなかった。国民はあきれはてた。金丸邸の奥座敷から、金塊がざくざくと出てきたからである。当時、政界でもっとも影響力のあった人の悪行の数々が世情にのぼった。金丸邸に行けば、何時でも政治活動費が手に入る、というのは国会議員の間では常識だった
のである。どこからそのお金が入っていたかも、よく知っていた。それがどう使われても、報告の義務もない。忠誠を尽くすというポーズだけでいんだから、政治の世界のお金というのは、世間とはかけ離れている。■あの時、国民世論を巻き込んで、「政治改革」論議が沸騰した。改革を叫ばなければ、議員さんたちはみんな次の選挙が怖かったのである。政治には金がかかる。そのために企業から政治資金を集めていたけれど、それが企業との癒着を生んでいるといわれるのなら、小選挙区・比例代表並立制とともに政党助成法を成立させよう、ということになったのである。何か憑きものに憑かれたようだった。政治は金がかかる、というのは選挙に金をかけるからである。政治そのものにお金がかかるわけではない。直接、国民はその論議にかかわれなかった。国会議員の間で、いつの間にか、「政治改革」が、「選挙制度改革」にすり変わって成立したのである。■並立制はどうもいけない。選挙で大敗した人が、比例で救われて、議席を得る。選挙民と直接の接点を持たなくとも堂々と議員になれる。中島洋次郎さんも比例で当選し、しかも三世議員である。派閥のボスから年末の餅代としてもらって
いたお金と、国民の血税から支給された助成金の見分けが付かないほど、「特殊な世界」に染まりきっていたのである。小選挙区制は、日本の政治家をチマチマした、さらに小物にしてしまう制度のようである。 |
日曜日の早朝のテレビには驚いた。和歌山の、あの「疑惑の夫婦」逮捕劇である。6時7分、自宅に捜査がはいる。報道陣が取り囲む。園部地区は騒然となる。七月、お祭りの昼食のカレーに砒素が混入されていて、それを食べた住民4人が死亡して、
70日以上もたっている。亜ヒ酸というのはそんな簡単に手に入るものではない。容疑者の夫の方は白蟻駆除の仕事をしていた。妻の真須美は凄腕の保険外交員。従業員に保険をかけてヒソを飲ませて殺人を計画した。保険金目当てである。周辺にはこういった数々の事件の匂いがある。おかしいと疑われるのは当然。二人には職がない。それで生活費月200万円。保険の支払いが100万を越えていたこともわかる。あの豪邸は妻の母親が亡くなって、手に入れた保険金1億5千万で建てたらしい。この時あたりから、味をしめたようだ。それにしても、保険というのは簡単におりるものなのか。あれだけ砒素を食べ物に混入して、従業員が入退院を繰り返しているのに、病院はそのことを見破れなかったのか。日曜日の報道番組は、この逮捕劇一辺倒。こういう人物のために、園部地区の犠牲になった4人の方々のことを思うと、腹立たしくなる。◆先週の日曜日、フジテレビの露木さんの朝の番組に、俳優の菅原文太さんが出ていた。報道番組なのに、と思っていたら、今年6月から、住まいを飛騨の高山に移して、田舎生活を始めたことへのインタビューだった。俳優という職業は、何時も「時代」に
乗っていなければならない。夜の付き合いも、芸の「肥やし」になる。紅灯の巷を闊歩するのも仕事である。そういう世界から、ちょっと距離を置いて、自分を取り戻してみたい、というのが、渋い二枚目スターの言い分のようだった。◆砒素混入事件疑惑の夫婦逮捕の日曜日、
チャンネル、夜7時、自給自足の生活を送っている、4組のグループのドキュメントが放映された。親の作った会社経営に限界を感じて、都会を離れて、四国の山村で夫婦二人の生活を始める。こつこつと田を耕し、鶏を飼い、羊を育て、大豆から自分たちが食べる味噌まで作る。お金は、使わないから必要ない、という。手作りで家を作る、と決意する。基礎に使うコンクリートは、生コン業者の使い捨てを貰ってくる。夫婦でこういう生活をするのが念願だった。まったく後悔はない、二人はそう思っている。保険金詐欺の、あの夫婦には見せたい番組だった。 |
ローマ帝国が滅びたのは、国民が「パンとサーカス」を要求し、迎合した政治家たちがそれにすべて答えていったからだという。パンをもらうというのは、働かなくても食えるということ。サーカスは娯楽である。働かないのは退屈を生む。退屈しのぎにローマの市民たちはサーカスを求めた。市民たちから点数を稼ぐために、政治家たちは、巨大な競技場、集会場、娯楽施設、公衆浴場を建設した。入場料は、無論、タダである。5世紀頃のことである。国が滅ぶのは、地震や洪水、飢え、こんなことからではない。その国を作っている人間が原因となって、である。新渡戸稲造が英語で「武士道」を書いたのは、1899年だからちょうど100年前のことである。札幌農学校で「少年よ大志を抱け!」のクラーク博士に学んでいる。ベルギー留学中に、法学者のラブレイ博士と、宗教の話になった。「日本では学校教育では宗教教育がない、とおっしゃるんですか?」「宗教がないとは。いったいあなたがたの国ではどのようにして道徳教育を授けているのですか?」と、いわれて愕然となり、即答できなかった。武士の家に生まれた自分に、善悪の観念をふきこんだのは「武士道」というものでは
なかったか、とおもいあたるのである。日本の武士というのは、他の国にない特別な職業であった。法律のようなキチンとした規約があるわけではないが、ことにのぞんでいつでも己を捨て、「義」のためには自らの命も絶つのである。「恥」かしいことはしない。「名を惜しむ」のである。戦後、「武士道」精神が好戦的国民を作ったのだときめつけられた。こういった儒教的な考えは、とんでもないとして、戦後教育のなかから、作為的に消されてしまったのである。ところが、である。日本は、戦後の豊かさを享受し、いつの間にか、「パンとサーカス」を求めて働かなくなり、お上の腐敗は、ついに「防衛庁」にまでおよんでいたという、恥ずかしい国になりさがっているのである。 |
高校野球が終わった。横浜高校が春夏連続制覇。怪物・松坂大輔伝説のスタートである。久々に凄い選手が現れたものだ。松坂は、準々決勝、17
回、250球を投げ抜き、準決勝は6点差を跳ね返し逆転。決勝戦はノーヒットノーランの完璧なピッチングだった。 甲子園が終了した、22 日深夜、元阪神タイガースの村山実さんが直腸ガンのために亡くなった。61歳。大学は関西だったために、東京六大学ほど注目はされなかったが、阪神に入団した年、 勝をマークし、一躍脚光を浴びた。対巨人戦への執念は鬼気迫るものがあった。特に一年先輩の長嶋茂雄との対戦には異様なまでにこだわった。通算1500個目、2000個目の三振は長嶋からとると宣言し、そのとおりにした。それはあの因縁の試合からだった。入団した 年は今の天皇陛下のご成婚の年。カラーテレビが急速に普及した。野球中継もほとんどカラーになる。その年の六月、後楽園で伝統の巨人阪神戦を、昭和天皇が観戦されることになった。天皇がプロ野球を観戦されるというのは神武始まって以来のことである。つい最近までプロ野球は、「職業野球」といわれていた。野球の「見せ物」である。それを陛下がご覧になる。プロ野球機構にとっても画期的なこと。後楽園はわきにわいた。試合はくんずほぐれつの大接戦。最終回、バッター長嶋、ピッチャーはリリーフの新人村山。強打長嶋の打球はレフトスタンドへ。劇的なサヨナラホームランである。三塁をまわり踊るようにホームに駆け込む長嶋と、対照的に、一発に沈んだ村山はうなだれながら三塁ダッグアウトにひきあげる。「あれはファールだ」と、村山はあらゆる機会に言いつづけた。よしこれから長嶋だけには絶対に打たせない。この向こう気が、村山の真骨頂だった。村山は何時も闘志を剥き出しにした。ストライク、ボールの判定で、泣きながら球審に抗議をする。こんなピッチャーはいまだかつていなかった。エースというのは、黙々とただひたすらに投げるものだった。それが、少年のよ うにむきになって、涙を流しながら、「どうしてだ」と球審に詰め寄る。村山投手のがむしゃらな、悲壮感あふれるピッチングは、テレビ時代の到来とともに野球を面白くしていった。長嶋と村山の対決は、あの時以来、巨人阪神戦の超目玉になった。それはすべて球史に残る名勝負だった。血を見るような「決闘」だった。プロ野球が今日の繁栄をもたらしたのはこの二人だといっても決してオーバーではない。村山さんは、甲子園の声援が届くような神戸の病院で怪腕松坂に声援を送っていたのかもしれない。新しヒーローが生まれその夜、縦縞のユニフォームがよく似合った、ミスタータイガース・村山実は静かに息を引き取ったのである。 |
W杯は決勝進出の可能性が薄くなった。6月 20日、クロアチアに善戦むなしく破れたからだ。テレビ中継を見るかぎり、技術よりも体力の差だというのがよく分かる。サッカーは格闘技に近い。そうなると、体が大きい方が強い。日本のお家芸と言われた柔道も無差別となるとヨーロッパの国々には歯がたたなくなった。「柔よく剛を制す」というのは日本人同志の試合で当てはまるもので、これが世界に広まったら、そうはいかない。小学生が高校生にかなうはずがないからだ。▲日本のサッカー界に、岡野俊一郎さんという人がいる。最近、サッカーの顔として、しばしば登場する、チェアーマン、川淵三郎さんの影に隠れてあまり表舞台にでなくなったが、岡野さんは、ひところ、サッカーの解説者として、理論的で分かりやすく、歯切れのいい話しっぷりで人気があった。このひとが、NHKのラジオに出演して、私のサッカー人生という題で話しているのを聞いたことがある。▲サッカーをやるきっかけになったのは、昭和十九年に、入学した旧制都立五中が、英国のパブリックスクールをモデルにした自由な校風を持ち、サッカーは学校の公式競技種目とされ、グランドでは皆サッカーをや
っていたからだった。終戦の日まで英語の授業をしていた。岡野さんの実家は、東京下町の谷中で、和菓子の老舗・岡埜栄泉を営んでいる。本人は五代目社長でもある。自由奔放な高校生活だった。友達と「何でもやろう」と仲間八人で「八郎会」というグループを作って、お互いの家を泊まり歩き、マージャンをやったり、焼酎飲んだり、たばこを吸ったり、まるで不良のような高校時代を過ごす。それでも、八人のうち七人が東大、早大、慶大にストレートで入った。岡野さんは、東大のサッカー部のグランドが近くだったので、東大生が真っ白なユニフォームでボールを蹴っている姿に憧れて、現役で、その難関を突破してしまう。昭和二八年には全日本の代表に東大のサッカー部からたった一人選ばれた。東京、メキシコ五輪では、コーチを務め、指導者として、現在のサッカー隆盛の礎を築く。現在、日本サッカー協会副会長で、IOC委員でもある。▲日本は、アジア予選すら突破出来ない「ワールドカップ」に何とか出たい、という悲願を実現するため、プロサッカーのリーグ戦を作り、フランス行きを獲得した。そのかわり、サッカー界に岡野さんのような人材は二度と出ないという、仕組みも作
ってしまったのである。 |
小錦の断髪式に行ってきた。外人初の大関が引退する。当日券はあっという間に売り切れて、大入り袋が出る。観衆は12000人。超満員である。引退式にしては珍しい現象だそうだ。ハワイうまれのサリーこと小錦八十吉が、どれだけ日本人に愛されたかがわかる。ハサミを入れる関係者は320人。土俵の上を生まれて初めて歩く。目の前にある小錦の背中は壁のように厚かった。このところ、相撲人気に「かげり」が見えてきた。掛かるのが当たり前だと思っていた、満員御礼の垂れ幕が、去年の夏場所、666日目に姿を消し、今場所の初日が満員にならないという「事件」が起きた。初日に満員御礼の垂れ幕がない、というのは、実に
年ぶりのことである。相撲人気を支えていた一人は、巨体を揺すり「プッシュ、プッシュ」の小錦だったことは間違いない。その小錦が土俵を去る。
年初土俵。元高見山(現東関親方)にスカウトされ、日本にやって来た。9人兄弟の一番下の男の子。母親の猛反対にあう。母親の涙を見て、逆に、日本で成功してみせる、とファイトが沸いたという。それでも、相撲の世界は想像以上だった。しきたりにとまどった。話し相手もいなかった。何度も部屋を出ようと思ったが、そのたびに母親の涙を思い出した。
年ついに初入幕。異例の早さである。初めての横綱対戦が、隆の里。なんと、立ち上がって3発、土俵の外へ吹っ飛ばしてしまった。「サリー旋風」が日本の相撲の世界に吹き荒れ出した瞬間である。日本では、ガイジンが強くなると、風当たりも強くなる。例の、「島国根性」である。何度も横綱昇進のチャンスを掴むが、推挙されない。それをアメリカのジャーナリズムが取り上げて、「横綱になれないのは、人種差別だ」と、小錦が発言したと報じて、大騒ぎになった。北尾との一戦で右ひざを傷めた。これが小錦の「綱取り」への致命傷になった。それにどういうわけか日本中から起きる「小錦バッシング」。つらい時代だった。ついに、外人関取初の大関の座も陥落。それでもひたすら相撲を取りつづけた。いくつかはかない、いくつかはかなわなかった。その小錦がとうとう現役の相撲人生に幕を閉じる日がやって来た。小錦のために作られた相撲甚句が館内に響きわたる。プッシュだサリーよ ゆけ小錦ヨー
アー楽園ハワイの快男児 部屋なら名門高砂で (略)さすがビッグの小錦も 土俵のパワー燃えつきて 5月青葉もさわやかな 本日引退大相撲 これから親方佐ノ山に どうぞご支援ヨーホホホイ アー願いますヨー |
いよいよサッカークジが実施されることになった。すんなりとはいかないだろうと思っていたが、衆議院で可決されてしまった。平成 12年、西暦2000年にはわけのわからない「スポーツ賭博」が世の中を闊歩することになる。この法案を真っ向から反対していたのが田中真紀子さんだったと知ったのはつい最近だった。それを援護するように朝日新聞が反対のキャンペーンを張っていたということも、実はインターネットでこの「サッカークジ」に関する記事を検索して、初めて知ったのである。長年我が家は「朝日」の熱心な読者だった。「サザエさん」が見たいばっかりに、取っていたのである。長ずるに及んで、頭のなかが「右旋回」するようになったら、どうもいけない、ついていけないのである。田中真紀子さんも、父親・角栄さんをうまく使い、地盤を引き継いだ単なる二世議員ではないか、とどうでもいい議員という評価をしていた。ところが、サッカークジ法案は決然として、与党・自民党のなかではただひとり反対にまわっていた]。その獅子奮迅の活躍ぶりを、あの朝日が追っていたのである。「田中」をたたいた「朝日」がサッカーくクジでは手をくんだ。文部省の「省益」にはなっても「国益」にはならない、と文教委員会で一人気を吐いていたそうである。あまりのはげしさについにその委員会の理事職を解任さ れてしまった。それでも最後まで、反対し続けていた。少年の犯罪はあちこちで起きている。サッカーを見ながら、ゲームを楽しめる。こんなおいし話にそんな類の子供たちが関心を示さないわけがない。競馬や競輪は学生は御法度である。それでもやっているものは結構いる。そこにさらに「サッカー」が加わるのである。スポーツ振興費というのは年間 120億円もあるが、足りない、というのがこの法案の言い分である。地方にいくと小さな町なのに、立派な中学校の体育館があるうえに、いつのまにか、さらににとてつもなくおおきな町営スポーツ会館が建つ。金はどういうわけか地方のほうにいってしまっているだけなのである。スポーツ振興費を捻出するための「サッカークジ」の必要性が、どうしてもわからない。 |
父の 日で田舎に帰った。2年前、同じ時期に母を亡くした。父は、母の3回忌を待って、追うようにして、天国へ旅立って行った。享年
86歳。明治45年生まれなので、明治、大正、昭和、平成と、波瀾にとんだ4っつの時代を生き抜いた。贅沢にも4っつの時代に身を置きながら、時代には左右されることなく、自分の生き方をガンとして変えなかった。熊本の典型的な、肥後モッコスである。もともと材木商を営む商家の長男だったが、あまりその世界には馴染まなく、電気技術者として身をたてる決意をして熊本高等工業(今の熊大工学部)を卒業すると京都の会社に勤務した。病気加療のため一時帰郷。その後、日本は太平洋戦争に突入という事態になり、戦況ますます泥沼化。会社への復帰を諦め、そのまま田舎で数学と理科の教師に就く。昭和
8年5月、出征。終戦直後から、満蒙の奥地で、消息を絶つ。家業の材木商は、祖父の突然の死によって、一家の大きな柱が倒れ、混乱を究める。長男の消息不明が,死の大きな要因とも思われた。ところが、父はひよっこり帰って来た。すると、人が変わったように家業に専念しはじめた。もともと、数学や物理の問題を解く方が性にあっているんだから、商売がうまく行く訳がなかった。店にいて、買い物に来たお客さんを、数学の問題を解いている最中だと言って、平気で待たせる。田舎だから、こんな話はあっというまに広まる。父親が店にいると、ひとはみんな遠巻きにして、他のところに行ってしまった。晩年にはついに、母の月命日などに、お経をあげにきていた、お坊さんも追い返してしまった。なかなかユーモアのあるご住職なので、さわぎにはならなかったが、戒名は「大徹院孝誉清薫教道居士」とつけてくれた。徹は頑固一徹である。追い返すというのは、普通、玄関で「玄関払い」をいうのだが、父の場合は、チョット話をして、さぁ−これからお経をと言ったトタン、もう帰ってくれ、となった。「仏前払い」である。こんなこといままで、あったことはありません、と
日法要式で笑いながら話していた。その浄土宗・荘厳寺の、仏壇の前に、こんな言葉が貼ってあった。「迷いながら・つまづきながら・求めながら・笑いながら・愛しながら・泣きながら・責めながら・恐れながら・己をつくり・神へ近づく・仏へ近づく」 |
東京六大学野球はいつのまにかあまり注目されなくなってしまった。観客も少ない。マスコミも取り上げない。NHKもついに早慶戦の中継を止めてしまった。リーグ戦の優勝にからんだ最後の試合のみテレビで放映される。プロ野球への登竜門が東京六大学というのは遠い昔のことになった。いい選手が六大学に来なくなった。それならばと、大学も推薦制度を強化し甲子園活躍組を集めた。それがどうもいけなかったらしい。高校時代ろくに勉強しなかった少年たちは有名大学に入ると野球以外のことに興味を示すようになる。高校時代しなかった分勉強も意外と楽しい。そうなると野球にさほど熱を入れなくなる。このまま4年間を無難に過ごせば一応一流企業に就職できる。野球でメシを食うなんてさらさら思わない。 つい最近、野球評論家の青田昇さんが亡くなった。滝川工業から巨人へ入団、川上、千葉とクリーンアップを組み、第一期黄金時代を築く。昭和17年の入団である。プロ野球は職業野球と呼ばれ、まだ、地方の「どさまわり」時代であった。野球で生活できるのかどうかそういうことより、日本がどうなるか、先がまったく見えない時代であった。たかが野球に 観客が集まるのか。職業としての野球選手に、今ほど魅力があったわけではない。そんな野球の世界へ飛び込んだ人たちがいて、今日のプロ野球隆盛の基礎が築かれたのだ。「プロ野球の先達」・青田さんの死のニュースと、今年のドラフトの目玉、慶応の高橋由伸選手の巨人逆指名の記者会見が偶然にも重なってしまった。青田さんはこの高橋を大学2年生の時から「巨人で取れ」と長島監督に話していたという。在京球団入りが希望だったが,最後までどこなのか分からなかった。ひよっとしたら青田さんが冥土へのみやげに、一役買って出たのかもしれない。東京六大学野球が注目されたのは久しぶりだ。ホームランを23本も打ったのに、22本の田淵(法政)よりもそんなに騒がれなかったのは、やっぱり六大学野球の中継がNHKから消えてしまったことが大きい。高橋選手のお父さんは、135試合すべてテレビ中継される巨人入りを強く勧めたという。野球を職業として続けるのだから、お父さんのアドバイスは至極当然である。 |
人の記憶というのは、まったくあてにならない、と言われている。この前、総務庁長官になって、12日間で辞めてしまった佐藤孝行という人は、前科者だった。ロッキード事件で受託収賄罪に問われ、アリバイを崩され、有罪になった。ずーっと前のことなので、任命権者の橋本首相は、そんなことはすっかり忘れていたらしい。ところが、それはおかしいと、国民は怒った。記憶があてならないというのは、人間は本人の都合のいいことは覚えているが、都合の悪いことは忘れてしまうからである。このことで、橋本内閣の指示率は急速に下がってしまった。宮城県の知事選挙は、現職の浅野史郎さんの圧勝だった。自民、新進、公明の押す市川一朗前参議院議員を大差で破り、再選された。そういえば、前の選挙は、ゼネコン汚職で本間俊太郎知事が辞職したあとだった。あのころは、やたらとあちこちの自治体でこの類の事件がおこった。それまでは、地方と中央との太いパイプがあることを武器に戦うというのが、ほとんどの自治体選挙のパターンだった。そういう県がそうでない県に比べて道路や橋がよくなっていたのも事実だった。ところが、それは汚職の温床が生んでいた、とわかっのが宮城 県知事の「ゼネコン汚職事件」だったのである。今回は、現職の浅野史郎さんは「脱政党」宣言をして、選挙に望むと発表した。政党はかかわってもらいたくない、ときっぱりと拒絶したのである。これに激怒した小沢一朗新進党党首は、自民党と組んで他の候補をたてて戦った。「知事と国政は密接な関係を持つ以上、政党と手を組むのは当たり前」というのが、小沢さんの言い分である。政党の党首として当たり前のことを言っただけである。ところが、小沢さんはこともあろうに、現地に張り込んで、県内のゼネコン業者の締めつけを行ったのである。これですっかり浅(63号 H.9.11.7 発行)野さんに流れが変わってしまった。県民は4 年前のことを忘れてはいなかったからである。橋本さんも、小沢さんも、「永田町の論理と国民意識の乖離を改めて思い知らされた」と本心でうおもっているかどうか。都合の悪いことは、早く忘れてしまう、ということがこの世界の常だからである。 |
このところサッカー界が何かと注目されている。W杯予選で韓国に破れたのは監督の采配ミスだと大騒ぎになった。橋本龍太郎総理大臣も、加茂監督の采配にいたくご立腹の態であったと報じられた。これがひきがねになったのか、加茂監督は、大会予選を半ばにしてクビになってしまう。ジェフ市原の株主の一つであるJR東日本は経営不信の原因はチーム数を増やしつづける川淵チェアーマンの独裁体制のせいだ、と断言した。同じように、ヴェルディ川崎のオーナーである読売新聞社長の「ナベツネ」さんは、あちこちでチーム経営が苦しいのは日本プロサッカーの仕組みがおかしいからだと言いふらしている。よほど腹にすえかねているのだろう。川淵は金儲けに執心していると吐き捨てる。 世界のレベルに伍していくために、日本でもプロサッカーを実現させようということになった。それまでは企業が力を入れてサッカー隆盛の下地が営々と築かれてきたのだから、形としては「プロ野球」と同じようになるだろうと関係者は考えていたに違いない。ところがまったく思惑が外れてしまった。企業名を使えない。テレビの放映権は川淵チェアーマンに一手に握られている。個々のチームには売
上が配分されるだけ。うま味がないというのが共通した言い分のようだ。中央に権限が集まりすぎている、もっと「小さな政府」で、民間活力を導入すべきという声が聞こえるようになった。サッカー界の「行革」論争である。〔たかがサッカー〕なのに、である。 そんな中、加茂さんは、ワールドカッブ予選不振の責任をとらされてしまった。何も日本だけが逆転負けや、ロスタイム中に1点とられて試合がひっくり返されたりしている訳ではない。実際、一位に君臨している韓国もカザフスタン戦で、間際に同点にされているではないか。日本は、負けるべくして負けたのであって、勝てたのに勝てなかった、のではない。大方のスポーツ大会では、「国の勢い」があるところが、強い。今回は、日本にはチームの勢いが感じられない。ワールドカップ予選通過が危なくなったのは、「日本の国」そのものに何か原因があるに違いない。 |
(61号 H.9.10.10 発行)
作曲家の吉田正さんは、戦地から日本に帰って来て驚いた。自分のった曲が大変なヒットをしているのである。「今日も暮れ行く異国の丘・・・」という歌がラジオから流れてくる。アナウンサーは、「誰が作ったか分からない。作者は名乗り出て欲しい」という。自分の歌だ、と思わず叫んだ。名乗り出てきた10数人のなかから、厳しい審査の後、「異国の丘」作曲者・吉田正が正式に認知されたのである。戦争は嫌だ。早く終わって欲しい。前線の兵隊さんたちの本音が曲の中に見事に表されていた。それが、満州の奥地の前線で、密かに、歌いつがれたのだった。 南方の戦線は、さらに過酷だった。名古屋で洋服仕立業をんでいた横井庄一さんは出征し、昭和19年3
月、グアム島に渡った。日本軍はその直後、米軍の上陸により敗走につぐ敗走。全員玉砕を覚悟する。大本営は「持久戦」の指示電を打つ。退路が絶たれてしまったである。上陸した時2
万人の軍隊は、3 千人に激減。戦えるわけがない。横井さんは5 人の部下とともにジャングルのほら穴の中で部隊から離れて生活していた。その間、所属部隊は米軍に投降。ほら穴生活の横井さんたちは情報が途絶。まったく孤立してしまった。「異国の島」に潜むこと28年。昭和47年1
月24日、ついに島民により発見された。このニュースはたちまちのうちに世界中に広まった。そのころの日本は「経済大国ニッポン」売出し中であった。日本は凄い国だ、と28年間もジャングルの中で暮らしつづけた横井さんの「超人ぶり」と重ね合わせて、世界は、改めて「ニッポン」を評価することになったのである。 横井庄一さんは「恥ずかしながら帰って来て」から25年、9
月23日、波瀾の82年の生涯を閉じた。北方の兵士たちは遠い故国を思いながら、戦争を嵐に例えて、「異国の丘」の中で「がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ・・」と歌った。横井庄一さんには、「長い嵐の中のジャングル生活」に報いる、「祖国日本」での
[暖かい春] はあったのだろうか。 |
ビートたけし、あのバイク事故の後遺症で、テンポのよかった話術に少し翳りがでて、この人ももはやこれまでかな、と思っていた矢先、北野武(
ビートたけし本名) 監督「 HANA-BI 」、ベネチア映画祭・金獅子賞受賞のニュースである。黒沢明監督の「羅生門」(
昭和26年) 、稲垣浩監督「無法松の一生」( 昭和33年) についで日本人としては
3 人目、じつに38年ぶりの快挙を、自称「お笑い芸人」・たけしがなし遂げたのである。何の先入観ももたない外国人には、北野武監督の作品はすこぶる評判がいいらしい。セリフを極力抑える手法は、イタリアやフランスなど異国の人たちに「キタニスト」といわれる北野武監督のファンを生んでいる。「この男、凶暴につき」を発表してから8
年。一年おきに作品を作る。なんやかや言われながら映画監督として頂点にたってしまった。 不思議な人である。昭和22年、東京は下町、足立区に生まれ、明治大学工学部を中退、浅草のストリップ劇場「フランス座」でコメディアンとなる。そこで知りあった兼子きよしとコンビを組み、昭和48年、「ツービート」を結成。「赤信号みんなで渡ればこわくない」などの強烈なブラックユーモアが受けて、一躍テレビの人気者になる。61年、写真週刊誌「フライデイ」の強引な取材に怒り、編集部に殴り込み逮捕される。暴力に及んだことで、世のひんしゅくを買う。懲役6
月、執行猶予2 年の有罪判決をうける。タレントとしての生命が危ぶまれた時代である。すぐ立ち直って、復帰するが、平成
6 年バイクで事故を起こしてしまう。この時ばかりは、誰も「芸能生活にピリオド」と、思った。受賞した作品「HANA-BI
」の「花」は生きるということ、「火」は銃撃と死を表しているという。言葉でも行動でも、越えてはいけないギリギリのところまで身をおかずにはいられない。それがまたこの人の魅力でもある。「この賞をもらって、こんなにもちあげられたら困っちゃうよ。ふんどしで走り回ったりしてまた少しお笑いをやらないと俺は駄目になっちまうな」。古い体質の日本の映画界に、とてつもない「鬼才」が殴り込みをかけてきたものである。 |
伊丹十三監督の「○○の女」シリーズの第5 作目、「マルタイの女」が完成した。映画ができると、この監督はやたらとテレビに出てくる。「マルタイ」とは警察用語で「身辺保護の対象者」。例の「ミンボーの女」で暴力団に襲われた体験をもとに映画が作られている。話題を呼ぶはずだ。テレビを使って自分の映画を宣伝するのがとてもうまい映画監督である。その伊丹十三さんが、8
月31日、日曜日の朝の番組で、「私はテレビ人間なんですよ」と断って、「日本のこれからを大変心配している。昔、日本人の行動をある程度抑止していたのは、
[神さま] という呼び名に似た [世間さま] というのが存在していたからだった。今、それはまったく機能していない。テレビの影響だ。いろんな情報を何の抵抗なく受け入れてしまう。外部と自分が遮断されていて平気になっている。いつのまにか[
世間さま] がどこかへ行ってしまった。これから子供を育てるとなると、私は自信がない。[
酒鬼薔薇聖斗] にならないという確率は極めて低い、というのが今の時代だから、だ」とテレビの持っている「麻薬性」を警告していた。 その放映の直後、フランスから衝撃的なニュースが入ってきた。イギリスの元皇太子妃、ダイアナさん交通事故で重体のニュースである。[
パパラッチ] というカメラマンたちが執拗にダイアナさんの車とカーチェイスを繰り返しついに壁面に激突。[
重体] の第一報からまもなく、[ 死亡] というテロップが各テレビ局の番組に流れた。つい最近、恋人との熱愛シーンを写真に撮られたあと「マスコミは残忍でアラ捜しばかりしている」と、ダイアナさんは、マスコミの加熱取材に、「いいかげにして欲しい」と抗議したばかりだった。イギリスやフランスは、NHK
のような国営放送が主体で、民放がない。有名人のプライバシーを「のぞき見」して視聴率を競っている日本の民放テレビの役割をしているのが、大衆紙なのだ。この大衆紙間の競争は、日本などと違って激烈である。特ダネ写真の「劇的な一枚」に社運を賭ける。その過激な報道合戦の犠牲となって、ダイアナさんは36歳の短い命を落としてしまったのである。「殺意のない殺人」だ、と民衆のマスコミへの怒りは大きい。情報量が多いというのは、決して幸せに比例しない。世界を、小さな窓口からのぞいていた時代が、本当に、なつかしい。
このところゴタゴタ続きの小沢一郎・新進党党首の動向は以前としてマスコミの注目を集めている。「いっちゃん」、「つとむちゃん」と呼び合った羽田さん去り、細川さんも出て行ってしまった。現在までの離党者33名だそうである。ずいぶん離れて行ってしまったものだ。東京都議会議員選挙は誰も当選しなかったが、小沢さんは昂然と、「新進党の今の力ではこんなもんでしょう」とのたまわった。あくまでも強気である。小沢さんの顔はお世辞にもいいとは言えない。「悪相」という人もあるが、ああいう顔した人は割合善人が多い。そういえばライバルの自民党総裁、橋本竜太郎の面相は美形であり、やたらと女性に人気がある。政治家でも顔は端正な方がいいにきまっている。最近、週刊誌で小沢さんがゴルフをやっているグラビアを見た。新進党親睦ゴルフが千葉県で行われた時のスナップである。この日の小沢さんのスコアーは、大勢押しかけた報道陣が並ぶ右方向にボールをそらしっぱなしで、スタートで10。それでも前半ハーフ51、後半は42で回ったそうである。これには驚いた。こんなにいいスコアーで回るのか。ゴルフを始めた時期が遅い人には、100
はなかなか切れない。そこまでやっとたどり着いても今度は、それを維持するのは並大抵の努力ではない。小沢さんは、例の如く強権を発揮し、ゴリ押しで、マスコミ用にスコアーをごまかしてはいないだろう。田中角栄元総理、「角さん」のゴルフは、グリーンに乗ったら、入ろうが入るまいがすべてワンパット。ものずごい勢いで次のホールへ向かう。前の組は当然あとから一人で回って来る、この「コンピューター付きブルトーザー」に蹴散らされて、思わず先を譲ってしまう。スコアーは無視。このペースで一日2ラウンド回った。小沢さんは、巷間伝わっているところによると心臓がよくないそうである。外国へ密かに旅立つ時は、たいていその治療のためと言われていて、日程は非公開である。何か問題が起きると忽然とどこかに消えてしまう。その行動は、謎めている。まさか、そういう時、ゴルフの練習に励んでいる訳ではあるまい。 小沢さんは、もっと人が集まって来て離れない「人望のある政治家」になるためには、「角さんのゴルフ」のようなどこか抜けていて、あっけらかんとした「陽性の気」を出すべきである。マスコミの前で、立派なゴルフのスコアーを披瀝しても、国民は少し
も拍手を送らない。
伊良部がやった。誰もがなさなかったメジャー初登板初勝利の快挙である。大リーグで投げたい、それもニューヨークヤンキースで、という望みがかなった上に、長いブランクを乗り越えて、ヤンキースタジアムのマウンドで、勝ったのである。そこそこはヤルだろう、とは思ったが、57000
人の観衆を背に堂々の、28歳、若者の勝利であった。 アメリカの大リーグでプレーしたい、と所属していたロッテの重光オーナー代行に移籍希望を伝えたのが、1996年11月6
日。これは物別れになった。日米野球協定というものがあって、そう簡単に、日本の球団の支配下にある選手がアメリカでプレーすることは許されない。伊良部は思いつめて、退団も辞さないと明言した。やむなくロッテはパドレスという球団と話をつけて、パドレスに移籍することを代理人の団野村に通告した。これには伊良部がうんと言わない。思いはニューヨークヤンキース。このあたりから問題がこじれにこじれてきた。古い体質のプロ野球OBと言われるお偉方は、ことごとく、「伊良部はわがままだ」、とお決めつけになった。日本プロ野球機構に対して反乱を起こし、本場アメリカの野球界にも敢えて挑戦したのである。昔は考えられないこと、だった。「どうしていけないんだ」。かなわなければ一年棒に振ってもいいと、伊良部は宣言した。すると、急転直下、話がトントンと進んで、晴れてニューヨークヤンキースと契約を交わすことになった。パドレスとヤンキースのトレード成立である。契約は4年。総額は1280万ドル(14億5000万円)
。これは実績のない一日本人ピッチャーにたいして、破格である。 7月10日初登板の前、伊良部はニューヨーク市長を表敬訪問した。市長も大はしゃぎして彼を迎え、市民の前でキャツチボールまでしてみせた。かつて、空白の一日を主張して、ジャイアンツ入りを強引にすすめた江川卓
(法政大学卒) は、日本中から総スカンを食ったことがあった。ゴリ押しすることを「エガワル」と言う言葉まで生まれた。ところが、アメリカは「おれが、おれが」という自己主張が「善」とされる、まことに「タノシイ国」なのである。日本では「ワルの伊良部」を、かの国では、すんなりと受け入れてしまった。その伊良部につけたニックネームが「ブブ」。ちょっと太めの手に負えない赤ちゃんのことを呼ぶ呼び方だそうだ。言い得て妙である。日本人は、当分、日本で生まれ、アメリカで育てられる「ブブ」ちゃんから目が放せなくなってしまった。
法事で千葉に行った。日蓮生誕地、小湊の近くである。千葉は日蓮宗が多い。それでも結構他の宗派のお寺もあるらしい。仏壇のある農家の広い居間。親戚縁者、三々五々、集まってくる。時間になった。お坊さんが、畑の向こう側にある寺院からさっさとやってきて、何の愛想もなく読経が始まる。「南無妙法蓮華経」が、低く響きわたった。まったくそのままの姿勢で、約1
時間。その間、客には焼香もさせない。途中で時計を見ながらだから、計算はちゃんとしてあるようだ。これは長いな。そう感じたら、有り難いお経も同じ文句の繰り返しに聞こえてしまう。法事の演出など、「今」にあわせて、もう少し工夫があってもいい。こんなことしていたら「新しい宗教」と称するものに若者たちをとられてしまうだろう、と心配してしまった。日蓮さんは鎌倉中期の人。それまでの仏家に疑問を抱き、諸宗の法門を研鑽して、新しい宗教「日蓮宗」を開いた。時代のニーズにぴたっとはまったのである。当時、日蓮の「南無妙法蓮華経」の音の調べは斬新だったに違いない。「灯り」が満たされているわけではない。日が落ちると、ほとんど闇の世界である。その中で、まったく新しい読経の「南無妙法蓮華経」は民衆の心を強く打ったのである。
今、音楽の世界では小室哲哉という人が一番注目されている。とにかく、作る曲作る曲がみんなヒットする。「小室教」といっていいかもしれない。彼は何の苦もなく、いとも簡単に、「音」を完全にビジネスにしてしまった。若者たちは、カラオケでは彼の作曲した曲を歌う。小室哲哉も、若い人たちにあう曲はどんなものか、すでにコンピュータにインプット済みである。
小室哲哉38歳。CDの売上だけでも下手な上場企業の売上高を凌ぐ。シングルCD、プロデュースしたアルバムの売上、471億9千万円。国税庁が発表した96年の長者番付によると、納税額は10億51万円で全国第4位。1音楽家として破格である。
この人は、マーケットを意識した作品を作ることに、すべてを注いでいる。カラオケBOXが各地にできはじめた頃、「ディスコとカラオケの間に未開拓の市場がある」と予言した。ディスコ帰りの若者が、カラオケBOXに流れる。歌謡曲が主流のカラオケの曲では、誰ものらない。そこに新しいマーケットを見つけ出したのである。若者たちにとって、カラオケで歌いやすいという曲、盛り上がるという曲を作れば、売れるではないか、ということを敏感に察知して、小室哲哉はそれをやってのけたのである。
礼儀正しく、頭がよく、世の中の流れを自然にさらりと嗅ぎ取り、スマートに物事をこなしてみせる人だというのが小室哲哉を知る人たちの批評である。若者は、新しいもの渇望する。いつの時代も、既成のものを打ち破っていくエネルギーを、大衆はみんな望むのである。
野球の本場アメリカから、審判術の指導のため派遣されていたマイケル・デュミューロ さんが、突然帰国することになった。ストライク・ボールの判定でモメたのがその原因 。外角をストライクとジャッジされた中日ドラゴンズの大豊がそれを不服で猛烈に抗議 したからである。判定に抗議するのは、本場の大リーグでも同じ。ところが向こうでは 絶対に審判には手を出さない。ストライク・ボールのジャッジでは抗議しない。監督と 審判が両手を後ろに回し、鼻と鼻がくっつくようにやり合っているシーンはよく伝わっ てくる。日本は、どうしてか胸ぐらを掴んだり、蹴飛ばしたり、暴力沙汰におよぶ。こ の大豊の執拗な抗議に恐怖を感じたデュミューロさんは、日本で審判を続けることに自 信を無くしてしまった。ベースボールと野球は違うことを身を持って体験したわけであ る。 ところがこの問題はさまざまな反響を呼んでいる。歴代の監督たちが審判のジャッジ に猛り狂い、暴力におよんでいるVTR を流しながら、アメリカのマスコミは日本の野球 の後進性を批判した。バーンズ報道官も異例の記者会見。日本から粋のいい若いピッチ ャーがどんどんアメリカに送り込まれ、アメリカからはロートルの大リーガたちを日本 が引き受けてくれているとジョークを飛ばしながら、デュミューロ審判のことぐらいで 二つの国の文化交流は揺るがない、と言明した。思わぬ記者団の質問にバーンズ報道官 も苦笑いと言うところであった。 アメリカから審判が来て、いきなりアメリカ式でやってしまったら問題は起きる。あ の「伊良部」さんも、向こうでやたらとボークを取られているようだ。ストライクゾー ンの違いは昔から言われていた。かつて、ヤクルトスワローズに、助っ人大リーガーの ホーナーという選手がやってきた。来日直後は特大のホームランを量産したが、突然、 打てなくなってしまった。それは、ストライクゾーンがアメリカと日本とでは大きく違 うということからくるものであった。「地球の裏側にもうひとつのベースボールがあっ た」と名文句を残して帰国した。ホームベースの巾は17インチ。大リーガーは踏み込ん で打つ。そのため打者の外側に来る球が日本より広い。内角はあまり取らない。必然的 にストライクゾーンは外側に広がる。これが日本と違うところだ。日本式のジャッジに 慣れている選手たちにとってアメリカ式の判定をする審判ははなはだ迷惑である。選手 が怒るのは当たり前だ。日本の野球の中で審判するのだから、デュミューロさんには、 そのへんのところは、こちら側のやり方に合わせてもらって、その他の審判術を伝授し てもらいたかった。「郷に入れば郷に従え」という諺は、確か英語にもあったはずであ る。
丹波哲郎の「霊界」の講演があるから、と誘いを受けたので行ってみた。豪放磊落、天衣無縫、俳優としても異彩 を放つ。その上、霊界研究者としてもつとに有名である。講演は、生命保険会社(ニッセイ) の主催。まだ新しい 都筑区公会堂、定刻前に会場は満員である。丹波さんは、最近、糟糠の妻を亡くした。30歳過ぎてから小児麻痺に かかり車椅子の生活だったらしい。どんな人にも優しく、すべての人たちに愛情を注いだ奥さんの、「死」につい て語ることから始まった。葬儀は盛大で、2000人の弔問客が訪れ、お経の代わりに、童謡「赤とんぼ」の曲が流さ れた。それが、いつのまにか参列者全員の合唱になっていったという。 丹波さんは、宗教家ではない。霊界の存在を信じていて、その研究に奔走しているだけである。それは、30年前 のことだった。日頃尊敬していたある人が死を眼の前にして、「死にたくない」とうろたえている様を見てからで ある。こんな悠々迫らぬ風格のある大人物が恐れおののく「死」とはいったい何物だ、と思い込んだ時から、この 「霊界」研究が始まったのである。 この世のなかで、不思議な話しというのは多い。誰かの生まれ変わりという のは、あちこちに存在する。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) が著書に記して有名になった、江戸末期の「勝五 郎の転生」の話がある。7歳の時、生まれる前のことを、「自分は、程窪の久平さんの子で、その時の名前は藤蔵 という名前だった」、と語ったので調べてみると、まったくそのとおりだったと記録に残っている。チベットの現 世的指導者、ダライ・ラマは「観音の生まれ変わり」と信じられている。亡くなると、国中から再生者が捜し出さ れる。実際、13世ダライ・ラマが死去する(1933年) と、7 年の年月をかけて、その「観音の生まれ変わり」を捜 し出し、14世ダライ・ラマが誕生したという話は有名である。 丹波さんの講演は、終始笑いの中で、「死後」の 話が、独特のムードで話される。その話術の巧みさはもちろんだが、世界各地のあらゆる「霊」にまつわる記録の 取り出しの速さに、驚かされた。世界の「霊」の話に関して、造詣が深いのである。 中井貴一と共演した時、生 まれた時の秘密を打ち明けられた。自分が生まれると父親(佐田啓二)は死ぬと言われ、2 歳のときまったくその 通りになってしまった。生まれてこなければ父親は死ななかったのか、中井貴一はずっーと悩みつづけていた。佐 田啓二の交通事故死にかかわる話は、因縁めいている。なるほど、中井貴一の「生」は偶然ではないのかも知れな い。丹波哲郎さんは、霊界の存在を肯定し、そこに至るまでの人間界での行いの重要性を説く。常に、ゆとりをも って生活し、人のためにいいことをしなさい、という話に行き着く。丹波さんの「霊」の話は、抹香臭くない丹波 流「極楽浄土」存在の辻説法なのである。
横浜には飛行場がない。神奈川県にはあるが、軍事用である。近くの羽田空港は、国内専用で、外国へ行くときは、ほとんど成田まで行かなければならない。それは30年も前のことだった。どうしてそうなったか、千葉の成田に空港を作るということが発表された。国民には寝耳に水である。当然、反対運動が起きた。その、いわゆる成田闘争は延々と続き、今も空港の回りは機動隊が配置されている。昭和40年代、高度経済成長時代の真っ最中である。羽田の周辺もあちこちに工場からの煙は上がる、廃液は垂れ流される、その上、飛行機の離発着時の騒音は住民の生活に与える影響は大きいものだった。こういう施設ははなはだ迷惑だ、ということになったのである。そこで、登場するのが、当時の東京都知事、美濃部さん。羽田空港の使用している土地は、大田区のものだった。美濃部さんは、ちょうど、契約期限が切れたのだから、更新せず、国から返してもらい、跡地を地域住民のために緑地公園にすることにしたのである。東京は革新都政、国の政権は自民党・佐藤内閣。当然、お互いに胸襟を開いて話し合おうとはしない。「返せというなら、そうしましょ う」、となって羽田空港は大田区に返されることになった。窮余の策として、御用牧場をはじめ国有地のある成田に、白羽の矢がたった。そこに、国際線を作り、羽田は沖合に新しく国内線を作るということにする。このことは、ある日閣議で決定され、あっさりと、成田に国際空港を建設することになったのである。 ところが、最近どうも評判のよろしくない青島都知事が、起死回生、次の選挙用のスローガンとして、羽田を国際線として復活させる、と動きだして、この成田国際空港のあり方がクローズアップされることになった。日本の首都・東京まで62┥もある成田が空の玄関では話にならない。成田への国際線移転の決定が、首都・東京にとっていかに先見性のないものであったか、美濃部さんとほぼ同じような立場にいる、「変節の人」青島さんが羽田を国際線に復活させると、言いだしたことでよく分かる。羽田の国際線化というのは、首都圏の空の玄関として、便利になるということだけでなく、東京がアジアの中心的立場を維持できるかどうかが、かかっている。韓国や、香港も、沖合に、成田の10倍もある空港を建設することになっている。そうなると、滑走路が一本しかない成田はロー カル線になってしまい、日本の首都・東京のアジアにおける地位が低下するのは目に見えている。最近、政治家の判断の基準を、「国家」を念頭に置くか、「国民」の立場を考慮に入れるか、元総理・中曾根さんと、自民党・加藤幹事長のちょっとた論争があった。どちらにしても、「羽田の問題」は、日本の政治家たちが「先を見誤った」ことをさらけ出していることに間違いない。
20年前のことである。当時13歳の女子中学生が突然行方不明になった。昭和52年のこの年 は、一月に、あの総理大臣の犯罪・田中角栄・ロッキード丸紅ルートの初公判が行われ、 まったくロッキード事件の裁判に明け暮れている。秋には、日本赤軍、日航ハイジャック 事件。当時の福田総理大臣は犯人たちの要求を飲み、身代金六〇〇万ドルを支払っている 。「人命は地球よりも重し」といって、日本赤軍の要求に屈した日本のやり方は、諸外国 からは非難を浴びた。王選手が七五六本のホームラン世界新記録を達成した。カラオケが 流行りだしたのは、この年からである。 そんな中、ひとりの少女行方不明事件である。新潟で起きたこの事件は、全国的にはさ ほど話題にならず、手がかりがなくウヤムヤになってしまった。 それが最近、北朝鮮にいるという情報が、韓国に亡命している北朝鮮の工作員によって もたらされて、にわかにクローズアップされることになったのである。 生きているというのだ。これを聞いたトタン、横田めぐみさんの両親は、「身体はショ ックと驚きで震え上がった」という。そんな恐ろしいことがあるか、という思いだろう。 あの頃、日本海側や九州の海岸で、アベックの行方不明事件が頻発していた。よその国に 進入して、その国の人を連れ去っていく。小さな船でいとも簡単に、一国の主権が侵され る。こんなメチャクチャなことは、ない。 こういう時の日本国の対応のまずさは伝統的なものである。どうして毅然たる態度で臨 めないのか。以前、大韓航空機事件の金賢姫の日本語の先生李恩恵は、日本人の可能性が 高いとされた。日朝交渉の席で、そのことを切り出したところ、北朝鮮の代表団は全員、 席を立ってしまった。そんな無礼な国に外務省は何も抗議することなく、この件は、再び 持ち出されることはなかった。今回もまったく同じで、交渉がなにやらおよび腰である。 現外務大臣の池田さんには、岳父池田勇人元総理大臣の豪快さと迫力は、微塵も見られな い。ペルーでは、身代わりにさせられそうな雰囲気を察知すると、スタコラ日本に帰って きて、マスコミに叩かれた御仁である。東大法学部卒、大蔵官僚から地盤を継いで、政治 家の道へ。こういうコースを歩んできた人には、こういった修羅場をくぐれるはずがない 。 北朝鮮にコメをすでに50万トンも送っているのは、人道上からであると池田さんは答え ている。横田めぐみさんのこと、これも当然人道上の問題なのである。