錬心抄

2013/12/01
錬心抄 123号  合気道通信 (平成25年12月号)
「一打一生 これほどの努力を人は運という」
      川上哲治

11月3日の日曜日だった。TBSサンデーモーニング、プロ野球日本シリーズの話題で、「喝」、の張本勲登場。10月28日に川上哲治氏が亡くなり、それが話題になった。突然、「川上さんのことを話すと涙が出てくる。何も言わないが、これが川上さんにいただいた言葉です。凄い人でした。」と、涙声。戦後なにもモノがない時代、昭和20年後半、子供たちの間では、野球が大流行。ユニフォームなどない。開墾シャツの襟を切り取って、線を筆で書いた。グラブはない。バットなど珍しく、竹バットで、田んぼで暗くなるまで遊んだ。その野球の英雄、背番号16、巨人の川上哲治、は同じ熊本出身というのが大変な自慢だった。王、長嶋が台頭してくると、現役引退。監督になるが、頑固一徹、マスコミには受けない。サービスがない。采配に悩み禅寺にこもると、叩かれる。ところが監督として9回連続日本一。その後は教えを乞うプロ野球の選手たちに、心技体、人間としてどうあるべきか、指導を続ける。禅僧、武道家のような雰囲気だったようだ。張本勲に与えた言葉、「一打一生 これほどの努力を人は運という」に、野球人として人間として、二人のドラマが浮かび上がる。

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2013/11/01
錬心抄 122号  合気道通信 (平成25年11月号)
忘己利他
「われをわすれてたをりする」 最澄

天台宗の開祖・最澄の言葉である。国宝というのは何か。宝というのは道心であり、道心ある人を名づけて国宝という。これが比叡山で学ぶ僧たちを養成する教育規定となる。道心とは仏道を求める心であり、仏の道であるという。その根本は「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、、己を忘れ他を利するは慈悲の極み」であるとする。自利はなく、利他を似て自利とするためてある。武直もその真は利他である。まことの武士は損得では行動しない。武道の修行は己のために向かうものであり、己との戦いである。ただ相手を打ち負かすためのみでするものではない。「捨己是我師也」である。後藤新平がよく揮毫した言葉に「ひとのおせわにならぬやう。ひとのおせわをするやう。そして報いをもとめぬやう」というのがある。まさに「忘己利他」である。

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2013/10/1
錬心抄 121号  合気道通信 (平成25年10月号)
道理は往くとして 然らざるはなし
 敬の一字は固より 修身の工夫なり
   養生の訣も 亦一箇の敬に帰す」
    言志四録 佐藤一斎

佐藤一斎の「言志四録」の中の言葉である 。この言志四録は西郷隆盛の終生の愛読書だった。幕末の志士たちの間でよく読まれている。佐藤一斎は美濃国(岐阜県)岩村藩の家老の次男である。長じて大坂の中井竹山に学ぶ。「養生の訣も亦、一箇の敬に帰す」。人の生を養う、身体を整えるその心がまえは、「敬」という一語で表される。敬というのは、人には礼を尽くし敬い、己には身を慎み、戒めることなのだ、と佐藤一斎はいうのだ。「一箇の敬に帰す」。これは人はどう生きなければならないか、見事にあらわした言葉である。人は身を正しく修め、立派な行いをすべく修行する。武芸修業の目的もそこである。礼に始まり礼に終わる。勝負に勝つことではない。「敬」は武芸修行の基本である。

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9月 1日(日) 〜 9月30日(月)
錬心抄 120号  合気道通信 (平成25年9月号)
「利根の人は妙味なし
    鈍根の人に妙味あり」沢庵


江戸時代、将軍家剣術指南役・柳生但馬守宗矩は、柳生新陰流を学ぶ弟子たちには、ある程度剣術の腕が上がると、「よく稽古をした。これから禅の修業も同時にやりなさい」と昵懇である沢庵禅師に弟子入りをすすめた。剣の技を磨くだけではその目的は果たせない。剣のさばきが他を圧してても、それは真の武士道ではない。人としては不十分。剣を通じて人の道を学ぶのが柳生新陰流。心の修行がいる。それには禅を沢庵に学べという。沢庵も剣と禅のかかわりを「不動智神妙録」という本にまとめている。剣の奥にあるのが禅だというのだ。剣の道に優れただけの「利根の人」ではいけない。その「利」を少し薄めて「鈍」となせというのだ。はやる気を鎮める修行が剣を学ぶ上で最重要課題だ。それは「剛即折 柔即存」という言葉にあてはまる。剛だけというのは折れやすい。脆い。柔は、柳に風、さらりと受け流し、存在する。合気道という武道は続けて行くことによって、この精神が自然に養われて行く。

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8月 1日(木) 〜 8月31日(土)
錬心抄 119号  合気道通信 (平成25年8月号)
「超曠(ちようこう)」

   
ある書道展の優秀作品の文字が「超曠」だった。この言葉は知らない。芸術は自然よりさらに自然になることをめざすもので、それを「超曠」というのだと解説されていた。最近、私が武術の動きは「超自然体」と、よく使っているので、芸術もそういう意味で「超曠」を使うのだと知った。曠というのは、ひろすぎる、さえぎるものがなく、久しい、遠い、を意味する。それを超えるのだから、さらにゆったりと広いということだ。芸術も武術もよけいな力は使うなというところで一致する。宮本武蔵は「兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば万事において我に師なし」と「五輪の書」に書いている。「一芸は万芸に通ず」である。武蔵は武術を追求しているうちに「超曠」を感じ取った。その身体を動かしている精神を悟ったのだ。それを応用し諸芸・諸能の道となして、書画の独特の世界を築き上げた。武術の理を知って芸術の世界にすんなりと入っていった。「超曠」を知り、「我に師なし」、を実践したのである。


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7月 1日(月) 〜 7月31日(水)
錬心抄 118号  合気道通信 (平成25年7月号)
「今日一字を覚え 明日一字を覚え 久しければすなはち博学となる」
               中井竹山

中井竹山は江戸中期の儒学者で、大阪 の学問所懐徳堂の学主でもあった。懐徳堂というのはあまりなじまないが、江戸の昌平譽と並ぶ西の雄である。竹山はその懐徳堂 を大阪の官立学問所にしたいと夢みる。チャンスは老中・松平定信の来阪である。短かい期間だったが、定信は竹山に政治や経済もろもろ諮問した。博識に定信は感銘。これを期に懐徳堂への訪問者は全国西・東あちこちからやって来た。ところが寛政4年(1792年)大阪大火に見舞われ懐徳堂は全焼。門人たちの寄付によって4年後に再建。官学化は実現しなかったが、名声は大いにあがった。弟子のひとりに「言志四録」の佐藤一斎がいる。大阪大学はこの懐徳堂を基盤としている。「今日一字を覚え 明日一字を覚え 久しければすなはち博学となる」武道修行の真髄でもある。。


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6月 1日(土) 〜 6月30日(木)
錬心抄 117号  合気道通信 (平成25年6月号)
晴れてよし、雲ってもよし 不二の山 元の姿は変わらざりけり」
    山岡鉄舟


鉄舟、山岡鉄太郎は「幕末の三舟」のひとりである。あとの二人は勝海舟、高橋泥舟。身長六尺二寸(188p)体重28貫(105キロ)。相撲とりのような大柄な体格であった。一刀正伝無刀流の剣の達人で、禅と書もよくした。西郷隆盛・勝海舟の江戸無血開城の会談前、西郷のいる駿府にむかう。勝海舟の親書を渡すためである。「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で歩いた。「晴れてよし、雲ってもよし 不二の山 元の姿は変わらざりけり」。「人は自分の不幸を周囲のせいにしがちだが、本来あるべき自分をただそのままに生きていけばいい」と自省しているのだ。剣の奥義である。豪胆で精緻。江戸を戦火から救った。書は頼まれれば断わらずすべて書いた。木村屋のあんパンが好きで毎日食べたという。木村屋の看板は鉄舟が書いたものだ。明治21年7月19日、胃癌。「腹痛や苦しき中に明け烏」、皇居に向かって結跏趺坐のままの大往生だった。


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5月 1日(水) 〜 5月31日(金)
錬心抄 116号  合気道通信 (平成25年5月号)
「独行道」  正保二年五月十二日

一、世々の道をそむくことなし
一、我事において後悔せず
一、身ひとつに美食をこのまず
一、神仏は貴し神仏をたのまず
    新免武蔵玄信

「独行道」は宮本武蔵が死の一週間前に書きあげた自筆の書である。21条ある。熊本美術館に現存している。武人・武蔵の武道論ではなく、その名のごとく「独りあゆんで来た道」。武蔵の独自の生き方を示している。62歳でなくなる直前に弟子の寺尾孫之允に「五輪の書」とともに渡している。武人とは思えない内容は迫力がある。常人ではない。その中で最も有名なのが、「神仏は貴し神仏はたのまず」だ。吉岡清十郎一門との決闘前、ふと神社の前を通る。勝負にご加護があるようにと、神殿に向かうが、ふっと我に返る。そこでこの名文句が出る。映画やテレビでは必ず出て来るシーン。佐々木小次郎との巌流島の闘いのあと、武人としての記録はあまりない。32歳から58歳まで、細川藩に客分として迎えられるまで、どこにいて何をしていたか詳細はわからない。ただその間、残した絵はプロも驚くほどの作品ばかりである。幕末の文人画家・渡辺崋山は武蔵のその腕に驚愕している。「枯木鳴鵙図」である。「墨技は兵法に通ず」。武蔵は、前半は武人として後半は文人として歴史に刻まれる人物なのである。


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4月 1日(月) 〜 4月30日(火)
錬心抄 115号  合気道通信 (平成25年4月号)
「散る花を追うことなかれ。出る月を待つべし」         中根東里

「散る花を追うことなかれ。出る月を持つべし」以前何かの本で知った言葉だった。気に入ってメモしていた。出典はわからない。ところが最近だれの言葉かわかった。磯田道史さんの「無私の日本人」という本の中に出て来る儒者・中根東里という人だった。この東里、不思議な人物である。「徳川時代に存在したあらゆる学者の中でも、もっとも清貧に生きた人。警くべき思想の高みに達しながら世に知られず、今日まで埋もれている人物」と作者の磯田さんは書いている。その時代の、最も高名な儒学者荻生徂来が激賞しているのだ。その文才をだれもがうらやんだ。ところが東里、学問で録をもらおうとしなかった。長屋にこもり、食べれるときは書を読み、食が尽きれば履物を作って小銭を稼いだ。長屋に病人が出て薬がないと知ると、大切な書物を売って助けた。それでも平気だった。貧しさは追いかけてきたが、「散る花を追うことなかれ。出る月を持つべし」、と部屋に大書して悠々と生きた。人生の中での喜びの瞬間は短かい。別れもやってくる。花は散っても、月は必ず出て来る。それを待っている時間をどのように大切に生きるかなのだと東里は言う。人生のすべてのことにあてはまる言葉である。


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3月1日
錬心抄 114号  合気道通信 (平成25年3月号)
「音に聞く 鼓ヶ滝を うちみれば かわべに咲くや 白百合の花」 西行

歌人・ 西行の若き修行中の話である。旅の途中、「鼓ヶ滝」の景観に心を奪れ夢中で歌を作っていた。たちまち日が暮れてしまう。旅籠も見つからない。すると一軒の家の灯りが見えた。訳を話すと、気持よく泊めてくれた。老夫婦と孫のような娘さんの3人家族。鼓ヶ滝でこういう歌を作ったと西行。「伝え聞く鼓ケ滝に来てみれば沢辺に咲きし白百合の花」。自慢げに話すと、おじいさんが「鼓という名前の滝じゃ。伝え聞くより音に聞くのほうがいい」。するとおばあさんも「私も少し直してしんぜよう。やはり鼓にかけて、来てみればは、うちみればのほうがいい。鼓は打つのだから」。それでは私もと娘までもが「鼓は皮が張ってあるのだから、沢辺よりもかわべとなさったほうがいい」。手直された歌のほうがはるかにいい。こんな山奥の寂しい民家で自分が自信をもって作った歌を、こともなげにさらさらと添削されてしまった。そこで目がさめる。夢だった。後に新古今和歌集にも載るような歌の名人西行も自分の慢心を戒めて一層の修行を重ねるという「鼓ヶ滝」という講談の一席。落語では六代目・円楽が得意とする「西行」である。武道修行の戒めにもなる話だ。


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