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平成14年2月1日(165号)
  田中真紀子さんの存在は、国民には大変都合がいい。政治家が官僚にどうかかわっているか、よく教えてくれるからだ。外務省の一連のゴタゴタは、オフイスに思わぬ風が吹き荒れて、書類があちこちに飛び散り、慌てふためいている、という図である。田中外務大臣と鈴木宗男議員とのバトルの核心は、「言った言わない」、ということではない。アフガン復興支援会議にNGOを排除するように、一国会議員の介入があり、外務省がそれを受け入れたのかどうか、国民はそこに関心を持っているのである。それにしても、あの鈴木宗男という人は、吉本のお笑い芸人によく似ている。富士通のコマーシャルでも人気があるが、「アホの坂田」といったほうが通じる漫才師である。それが「髭面の外務官僚」たちに、おもいっきりいばりちらしているらしい。漫才の世界なら笑って済ませるが、ことがことだけに笑うわけにはいかない。国民に「役に立つ人」というのが、役人なのだ。変なごり押しの「あほらしい国会議員」などにへつらうな、毅然としろ、といいたい。ただ、外務省お役人さんたちのあの「髭づら」というのはどうか。問題起こしている人物には髭をはやしている方が多い。まず、今回の問題で更迭が噂されている野上事務次官も、顔中が髭。日本の風習にはそぐわない。髭が世間の風を妨げる。これでは、アフガンなどで献身的に援助活動に取り組む「NGO」の人たちの感覚は理解できないだろう。アフガン復興会議への排除の対象になった、NGOの、ピースウイングジャパン、大西健丞さんはすがすがしい人だった。日曜日、田原総一郎さんの番組に出て、「外務省を批判するなら、外務省主催の会議には出席するな」と、鈴木宗男議員が、直接携帯電話にかけてきた、と告白した。その他、どれだけ「NGO」活動への妨害、関与をしてきたか、切々と訴えていた。これで、完全に田中真紀子さんの勝利である。そもそも、鈴木宗男という人は、亡くなった中川一郎国会議員の秘書だったことで、世間に名が知れ渡った。総裁選挙に破れた失意の中川一郎さんは、ホテルで自殺する。その当時、鈴木宗男秘書の、自殺前後の行動は、おおいに疑惑がもたれた。石原慎太郎都知事も中川一郎グループのメンバーだったので、いきさつがあちこちの雑誌に発表され、無名だった鈴木宗男秘書は俄然注目を集める。ダーティーなイメージでのスタートだった。すぐに主の地盤から出馬し、当選。あれから、とんとんと階段を登りつめ、自民党・橋本派内での揺るぎない地位を確保する。外務省へ強烈な影響力をいつの間にか手中に。田中真紀子さんが指摘した、外務省主催のアフガン復興支援会議に非政府組織「NGO」が参加しないよう妨害したというのは明らかで、それがどいう目的なのか永田町ではみんなが知ってることだったのである。
平成14年2月14日(166号)
  今世紀初めてだという、冬のスポーツの祭典、冬季オリンピックが始まった。会場になったソルトレイクは「塩湖」といわれる湖から由来する。期待した日本の選手たちはあまり振るわない。塩辛い雪や氷には馴染まないのだろうか。このところ、日本スポーツ界の、特に、男子の衰退が目だつようになった。日本の女子の活躍はめざましい。マラソンでも高橋尚子のあとに若い溌剌とした選手がぞくぞくと現れる。ベテランも結構存在をアピールする。オリンピックのマラソン選考に漏れ、出場した一万 では無念の最下位、その弘山晴美選手(33 歳)が、大阪国際女子マラソン大会(1・27 )で見事第二位で、復活。女子マラソンは、何か期待させるものがあり、テレビ中継にも引き込まれる。先週の東京国際マラソン、日本選手、日本で育ったケニアの選手にまったく相手にされない。マラソンは身体の小さな日本人には適した種目だ、といわれ、大会ごとに凄い選手があらわれてきた。それがこのところ外国勢に押されっぱなし。■日本のマラソンの草分けは、金栗四三さんである。第5回ストックホルム大会(1911年)に、マラソンの日本代表として初めて出場する。当時、金栗さんは、世界記録を27分も更新して、オリンピッに挑戦を決意。航空機などなかった頃、大変な長い船旅を、18日もかけて、ストックホルムに到着。6月である。予想以上の「暑さ」、に愕然とする。日本では、マラソンは冬のスポーツだとして、暑いときには走らなかった。マラソンのスタートは7月14日。夏の真っ盛りで、環境も変わり、異境でたった一人。さすがの日本代表金栗さんも、不安から、食事も喉を通らない。コースにはそのころ給水地点など、ない。沿道には応援する人も、ない。孤独の、未経験、猛暑のマラソンだった。20kを過ぎると朦朧としてきて、ついに失神。見知らぬ人に助けられて、気がついたのはベッドの上。日本中の期待を背負い出場したのになんたることか。金栗さんは、そのままゴールに向かわず逃げるように日本に帰ってしまう。その後金栗さんは未熟さから起こしたオリンピック惨敗の経験を、後継者育成に邁進。数々の名選手を育てた。突然、1967年、ストックホルムの粋な計らいで、オリンピック記念式典に招待され、55年ぶり懐かしい陸上競技場を訪れる。そこにはゴールにテープが用意されていて、促されゴール。「タイム、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。世界一遅いマラソン記録です」と、場内アナウンスされる。この金栗さんの「屈辱をバネに」の心意気を、今の世代の人に求めるのは無理なんだろうか。
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