あれは昭和45年だった。一もう四半世紀以上も前のことだ。西鉄ヲイオンズ、池永正明は、黒い霧事件にかかかったとして、プロ野球から永久追放になつた。入団六年目、投手として、将来、数々の記録を塗り替えるに違いない逸材だった。暴力団がらみの野球賭博で、事前に勝ち負けを仕組み、先発ピッチャーを漏らしたり、手心を加えてわざと負けるようにする八百長が行われていたとして、西鉄ライオンズの選手を中心に六人が処分されたのだ。その中に、池永正明の名前があった。田中勉という中日の選手に、百万円渡された。話があった八百長は断つたのだが、金は強引に押しつけられた。前に金を貸していたこともあり、軽い気持ちだつた。それが大事件に発展するとは夢にも思わなかった。若かったし、体育会系の上下関係では、上からの指示は絶対的で、逆らえない。悪夢のような出来事だった。池永正明は、これからという時、24歳で、夢を絶たれたのである。以来、このことヘの言い訳も申し立ても何もしなかつた。沈黙を保ちつづけ、生きていくための生業を、福岡・中州で、スナック「ドーべル」を開いて、立てた。地元、福岡での、池永正明に対する非難は想像を絶した。店内で客は平気で也永正明を罵った。それにもじっと耐えた。プロゴルファーのジャンボ尾崎は、甲子園優勝投手で、池永正明と同じ西鉄ヲイオンズに入団する。ブルぺンで池永正明と一緒に投げていて、実力の違いを見せつけられ、あっさりとプロ野球を見限る。球の質が違つた。「池永正明がいなければ俺はプロゴルフの世界には行かなかつた」、と今でも交流が続く。あれから30年たつた。『もう許してもいいんではないか、という声が地元福岡や、出身校の下関商業OBたちの間からおこった。1998年、「池永正明復権18万人署名運動実行委員会」は、18万人の署名をプロ野球コミッショナーに提出したが、却下された。池永正明だけの裁定を覆す訳にはいかない、という理由だ。当時、墨い霧事件を、プロ野球機構としては、池永正明をスケープ一ゴードにすることで、解決せざるをえなかったのだ。ところが、プロ野球界の影のドン、読売新聞社の渡辺恒雄社長も池永正明の復権を認めエもいい、といいだした。昨年末、プロ野球OBたちが組織して始まった「プロ野球マス一ターズ」に出場。福岡ドームのマウンドを踏んで、ファンの前に雄姿を表した。池永正明の中学時代の恩師は、。事件発覚からずっと、彼をささえつづける。娘が結婚するとき、初めて、「汚名が晴れないだろうか」と、池永は思師に打ち明けたという。「もういいんじゃあないですか」、恩師の目にはうっすらと涙がにじむ。池永正明復権ヘ、世論の風向きはすこしずつ変わりだした。
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