錬心抄

2015/01/24
錬心抄  135号  2014.12月号
あれを見よ
 深山の桜咲きにけり
  まごころつくせ
     人知らずとも

これは臨済宗僧侶・松原泰道さんが学生時代に就職が決まらない5人の仲間と箱根を旅した時、歌碑にしるされていた言葉だそうだ。作者はわからない。時代は昭和の初期である。。この言葉に泰道さんは心を打たれた。その瞬間、自分の生きて行く姿勢が決まったのだという。誰もいない深い山に桜が咲いている。人に見られるために咲いているのではない。咲き誇ってはいない。ひっそりと咲いている。人もこうあるべきだと泰道さんはは心をうたれたのだ。すぐに臨済宗の僧侶の道を選び、修行の道に入る。武道の修行もまさにこれだ。黙々とその道に打ち込む。まわりがなんといおうとひたすらに、である。

2015/01/24
錬心抄  134号  11月号
忘己利他
「われをわすれてたをりする」 最澄


天台宗の開祖・最澄の言葉である。国宝というのは何か。宝というのは道心であり、道心ある人を名づけて国宝という。これが比叡山で学ぶ僧たちを養成する教育規定となる。道心とは仏道を求める心であり、仏の道であるという。その根本は「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、、己を忘れ他を利するは慈悲の極み」であるとする。自利はなく、利他を似て自利とするためてある。武直もその真は利他である。まことの武士は損得では行動しない。武道の修行は己のために向かうものであり、己との戦いである。ただ相手を打ち負かすためのみでするものではない。「捨己是我師也」である。後藤新平がよく揮毫した言葉に「ひとのおせわにならぬやう。ひとのおせわをするやう。そして報いをもとめぬやう」というのがある。まさに「忘己利他」である。

2015/01/24
錬心抄   133号   2014 10月号
「為すものは常に成り、行くものは常に至る」 晏子    
    
「為す者は常に成り 行く者は常に至る」。どこかで聞いたような言葉だが、中国の賢人宰相といわれた晏子が残している。アメリカのケネデイ元大統領も関心を持った米沢藩・上杉鷹山の「為せば成る 為さねば成らぬ、何事も、成さぬは人のなさぬなりけり」はこれを基にしているのだそうだ。「為せば成る」なのだ。その気になってやり続ければ必ず成し遂げられる。目標をを定めて進み続ければいつかはそこに到達できるのだ。合気道を通じて知った「気」というのはこういうことだ。手をつかまれた時の気の入れ方は稽古を続けていれば自然に身につく。物事のやる気というのはまわりの事象に振り回されてその気がどこかへ行ってしまう。言い訳なし。合気道で学ぶのはその持続させる気なのだ。


本多青仁斎靖邦
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2015/01/24
錬心抄   132号  2014.9月
非風非幡
    (ひふうひはん)


無門関に「非風非幡」という公案がある。 「風に寺の幡(はた)が揺れていた。二人の僧がこれについて議論していた。一人は幡が動くと言う。も一人は風が動くと言う。激論が続きいっこうに落着を見せない。その時通りかかった六祖慧能(ろくそえのう)は、風が動くのでもない、幡が動くのでもない。お前たちの心が動いている、と言った」というのだ。ところがこれがこの問答の解答ではない。無門関の慧開は「心が動いているのでもない」というのだ。心が動いてるというのは禅僧たちがくだらないことで言い争っていることに対する、たんなる教訓ということになってしまう。禅の世界では頭では考えない。考えたものは架空のものでしかない。ありのままを受け入れるのが禅である。武道の稽古もそうで技を頭で考えて結論を出してしまうのではない。感じとったものをそのままにやっていくのだ。それが上手いとか下手という、そういうものではない。「非風非幡」。動いているものをありのままに見て感じとればそれでいい。答えを出すものではない。
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2014/08/1
錬心抄  131号  8月号
山は土を辞せず 故によくその高さを成す」
 
この前に「海は水を辞せず、故にその大を成す」がある。「三国志」の曹操の言葉である。後漢末の武将で政治家。詩人でもあり兵法家として魏の国の基礎を作った。漢字というのは生き続ける。その時代をよみがえらせる。山は土の積み重ね。好みで作った訳でなくその山の大きさは自然のものなんだという。海も水をこばまなかったので大海となったんだという。人もそうではないか。色んなものを受け入れて大きな人になる。拒まない。素直さだろう。武術の習得もまるでそうだ。技を学ぶ。身体を使う操作を覚える。繰り返す。これでいいということはない。何でも受け入れる。知らないうちに風格がでる。「山は土を辞せず 故によくその高さを成す」である。これが人の大きさである。

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2014/07/01
錬心抄 130号  7月号  
「起きて半畳 寝て一畳 天下を取っても二合半」


「起きて三尺寝て六尺」、「千万石も飯一杯」、「千畳敷に寝ても畳一枚」。必要以上にあれもこれもと望んでもしかたがない。人間一人が占める面積は半畳か一畳。食べる量も一人二合半と限られてしまう。昔の人はうまいことを言ったものだ。どんなに大金持になっても人間は人間。お金で買えないものがある。これは司馬遼太郎が「坂の上の雲」で秋山好古の言葉として使っていた。日本が未来へ向かって突き進んでいる時代の男たちの心情がよく出ている言葉だ。「起きて三尺寝て六尺」は正岡子規が「病状六尺」で使っている。欲望へのコントロール。武術の稽古を続けるというのは、現在の物を追いかけている時代の中でむしろ新鮮な感覚ではないか。欲望への警鐘。道場の中に己を確立する。そこには何もない。何もいらない。武術の修行には限界はない。

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2014/05/31
錬心抄  129号   6月号
「目を前に見て心を後に置け」

 これは能の世阿弥の言葉である。1370年、室町時代前期に活躍。能の前進の猿楽を父の観世阿弥とともに大成する。「目を前に見て心を後に置け」というのは能を演ずるとき、自分を観客席に置いて冷静な視点を持てということなのだ。著書の「風姿花伝」では観客に感動を与える力を「花」と表現している。少年のときは美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」にすぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫から生まれると説く。奥義はこの「まことの花」である。能の動きを武道家たちは注目する。合気道創始者植芝盛平翁もその一人。下半身の足さばき。上半身は無為自然。歌舞伎の動きもそうだ。静の中に奥義がある。武道を志すものは範とすべきなのだ。身は浮き身。すり足で腰は安定させる。「離見の見」、「目前心後」。「目を前に見て心を後に置け」。武道の心構えである。

2014/05/31
錬心抄 128号  5月号
福生於無為 患生於多欲
(福は無為に於いて生じ 患は多欲に於いて生ずる)

人間は自然の一員で、あらゆる生き物のの中の一つなのだが、現状の豊かな生活を享受しているうち、驕り高ぶってしまった。地球上で王様のように振舞っている。人間の身体が変化した原因だ。武術が始まったころは、稽古の場、技を取得するのはほぼ自然の中であった。自然を観察しその動きを師とした。身体の動きは自然である。武術が競技武道になると力が求められる。筋肉を鍛える。これで競技武道は日本の文化伝統の世界から離れてしまった。武術は身体と心をひとつにする修行である。無為というのは何も為さないということ。作為がないのだから自然である。福、しあわせ、心の安定というのは素直さということになる。逆に、多欲、あれもこれも貪欲に己のものにしてしまおうとする行為には力が入ってしまって、動きを止めてしまう。無為自然。人間の理想の生き方と、武術の求める人間の身体作りの根本は同じということになる。

2014/05/31
錬心抄 127号  4月号
山不辞土 故能成其高
(やまつちをじせず ゆえによくそのたかさをなす)

海水辞水 故能成其深
(かいすいみずをじせず よくそのふかきをなす)

 古い中国の言葉だ。土を辞せず、というのは物事の清濁あわせ呑む、広い心を持てということ。山は土を重ねていってその高さを保つ。実際、山はそうやって出来るものではないものの、その意はわかる。人もどんなことでも受け入れて咀嚼して己のものにして行くことだ。度量が広くなれば人も大きくなる。山と海。両方とも人を豊かにする。そういう人間になるというのが生きていく理想だ。武道の修業は己を磨き、技の習得を通じて心を広げていくもの。稽古を続けることによって知らず知らず身体が反応し、脳を刺激する。強くなるということは心が強くなるという
ことである。

2014/05/31
錬心抄 126号  合気道通信 3月号
「曹源一滴水」
     そうげんのいってきすい

 禅の大御所は面壁九年の達磨大師。そのあとの六代目の慧能(えのう)禅師によって中国の禅は確立している。「曹源一滴水」。慧能が住んでいたところが曹渓で、曹というのは慧能のことである。禅の教えはこの曹渓を源とする。曹源というのは禅の本質、真髄のことだ。ある弟子が風呂を沸かしすぎてしまった。その水桶の水を庭に投げ捨てた。禅師は烈火のごとく怒った。「その水を拾え」と命じた。一滴の水にも仏性が宿るとするのが禅の心。水を捨てることは己の魂を捨てることなのだとその弟子を戒めたのだ。仏教の深遠な教義を身につけるために修行するのではない。日常のさりげない出来事のなかに仏性を発見することだ。それが「曹源一滴水」。武術の修行もまさにこれである。日々の小さな稽古の積み重ね。武の修行は心の修行である。

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