錬心抄

2019/04/28
錬心抄 183号 12月号
 有志きょう成
「ゆうしきょうせい」

今年のノーベル賞の受賞者の本庶佑京大教授の座右の銘で一躍注される言葉になった。「志をまげることなく堅持していれば必ず成し遂げられる」ということ(十八史略)。本庶佑氏は免疫反応のブレーキ役となるタンパク質を発見し、ガン治療に応用する研究を主導した。「訳の分からないような分野で変革が起きる」と地味な研究に没頭した。「長く志を持ち続けることが大願成就の秘訣。あきらめないことだ」と強調。ノーベル賞受賞に至るような成果には、強い思いとたゆまぬ努力だ、と話している。この言葉は武術の修行にも当然あてはまる。始めたのにまだ何も取得しないのに諦めてしまう。こういう時代にこんな古いもの、木刀や杖などを振る。これは人殺しの武器ではないか。何の役に立つのか?本庶佑教授のノーベル賞への道は真暗闇の中、一筋の光を頼りに突き進んでやり遂げた。武術の修行も同じようなものだ。
2019/04/28
錬心抄 182号 11月号
山川の末を流れる
 橡殻も身を捨ててこそ
      浮ぶ瀬もあれ」
          空也

平安時代中期の僧。口称念仏、いわゆる踊念仏の開祖。「南無阿弥陀仏」を唱えながら道路や橋、寺を作るという社会事業を行った。
山川の末(さき)を流れる
  橡殻(とちがら)も
      身を捨ててこそ
       浮ぶ瀬もあれ  
橡殻(どんぐり)も中身を捨ててしまったから、水に浮くんだ、という。何かにしがみついていては何もなせない。捨ててしまえば、ものごとは何事も成る。武術にも、「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、たんだ踏み込め後は極楽」、というのがある。ことに臨むに、覚悟がなければ、人間、前には行かない。己を捨ててしまえ。しがみついてはことをなすことは出来ない。
2019/04/28
錬心抄 181号 10月号
おのれこそおのれの寄るべ おのれを置きて 誰に寄るべぞ よく整えし おのれこそ まこと得がた き 寄るべなり」 法句経

これはお釈迦さんの法句経にあることばで、平易な言い回しで己を鍛える姿勢というものを詠っている。武術修行そのものと言っていい。少林寺拳法の道訓としても使われている。漢字であらわすと
  
   以自為依怙
  何有他依怙
  自己善調御
  得難獲依怙

となるが、やっぱりかな交じりの「おのれの寄るべ」、「よく整えしおのれこそ」、「まこと得がたき寄るべなり」、このほうがリズムがあり、さわやかに身心に浸み込んでくる。稽古前、心の中で静かに詠んでみるといい。
2019/04/28
錬心抄 180号 9月号
「一念一念と
    重ねて一生なり」
        
佐賀藩、山本定朝の「葉隠」の中にある言葉。定朝が、江戸時代中期、武士としての心得をまとめたものである。自分の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いている。山鹿素行の儒学的武士道を批判し、行動は理屈ではなく、その場の判断、それは「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと定朝はいうのだ。「武士道とは死ぬこととみつけたり」。これが「葉隠」の言葉として有名だが、太平洋戦争中の「特攻隊」「玉砕」「自決」、の裏に誤解して使われ、戦後、一時、発禁になった。目的のためには死を厭わない、ということではなく、物事に向かう時は、己を捨てて無心になれということなのだ。その「一念」の積み重ねが己の一生、そう説くのが「葉隠」なのである。
2019/04/28
錬心抄 179号 8月号
「たったひとりしかいない自分の、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かされなかったら、 人間、生まれてきたかいがないではないか。」山本有三


いい言葉なのでメモしておいたら山本有三だったと後で分かった。山本有三の小説「路傍の石」の中に出て来る。主人公の吾一が自分に言い聞かせあらゆる困難と闘って行く姿である。さらにこういう言葉もある。「学校ってものは、からだとからだの ぶつかり合うところだ。先生の魂と生徒の魂が触れ合う道場だ。それではじめて、 生徒は何ものかを体得するのだ。一生忘れないものを身に付けるのだ。」山本有三、菊池寛、芥川龍之介、第一高等学校の同級生。明治、大正の日本の黎明期、きらきら輝くものがある。
2019/04/28
錬心抄 178号 7月号
「大直は屈するが若く 大巧は拙なるが若く 大弁は訥なるが若し」老子


これは老子の言葉で、満月は満ち欠けがあるからこそ、天をめぐる。大成しているものは欠けるからこそ、その働きは尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるからこそ、その働きは極まることがない。長大な直線は曲がったように見え、本当に巧みなものは拙いように見える。雄弁なものは訥々としているように聞える。武術の世界でも、名人といわれる人の動きに派手さはない。合気道の演武というのはオーバーにやるものではない。実践では、勝敗は一瞬。そこに至るまでの過程が、武術の大義。身体能力を高めて行くその稽古の積み重ね。人前で見せる大仰な演武には何の意味もない。大直は屈し、大巧は拙で、大弁は訥。これが武術である。
2019/04/28
錬心抄 177号 6月号
少年の時は 老成の工夫をなし 老成の時は 少年の志気を存せよ」佐藤一斎

佐藤一斎、幕末の思想家で、「言志四録」の著者でもある。これは西郷隆盛の愛読書で、片時も離さなかったという。「少年の時は 老成の工夫をなし 老成の時は 少年の志気を存せよ」はその中に出て来ることばである。わが道場は少年部と一般部が一緒に稽古をする。これはこの佐藤一斎の思想を道場で実践していることになる。武術は何も技の上手下手を意識して神経質にやることはない。お互いにいい影響を与えながら気持ちを一つにして切磋琢磨する。もう刀を振り回して斬り合う時代ではない。ただ、物の時代の今だからこそ、己と向き合って身心を鍛えなければならない。「少にして学べば即ち壮にしてなすことあり、壮にして学べば即ち老いて衰えず、老いて学べば即ち死して朽ちず」。この言葉もいい。弟子には、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠などがあり、新しい時代の扉を開いた推進者が佐藤一斎といっていいだろう。
2019/04/28
錬心抄 176号 5月号
什の掟

 ならぬものはならぬ


この什の掟、あの白虎隊の学び舎、会津藩、日新館に学ぶ少年たちの集会の決まりごと。10人位の人数で集まって、この掟を、今日は一日守ったか、話し合うのだ。年長者のやっちゃあダメだということにちゃんと従ったか?道で会って挨拶が出来たか?嘘を言わなかったか?卑怯な振る舞いがなかったか?弱いものをいじめなかったか?外で食べ物を食べたりしなかったか?ならぬことはならぬものだ。6歳から9歳までの藩士の子たちのグループである。背いたものがいれば什長が相談して罰則を与えた。これに近いような子供たちの集まりは日本各地にあった。会津の白虎隊の最後に感動した外国人たちが、会津の什の掟というのに更に驚いて、日本の子供教育の奥の深さを評価。什の掟の存在が注目されることになったのだ。ならぬことはならぬ、これが世に出て行く前の大切な教えなのだから。
2019/04/28
錬心抄 175号 4月号
「修行はばかになっていなければ上達しない。
ばかということばをいいかえればも のにこだわ らない素直なことである 。
理屈っぽいのがいちばん修行のさまたげになる。
その次にいましめなければならないのは慢心である。」

いつごろだったのか、これを書いたメモが出て来た。だれの言葉かわからない。合気道修行のみならず、何事にも当てはまる言葉だろう。「修行はばかになれ」という最初の一撃で入り込んで行く。何だ簡単なことじゃないか、と思うのだが、これが意外と難しいのだ。最初は何もかも新鮮で面白い。技を掛けたり掛けられたり、相手を変えると、あれっと何かに気がつく。そうすると知識として技を解釈するようになる。分かったと判断してしまうのだ。簡単だ。これが修行を妨げにする。稽古から気持ちが離れてしまう。「稽古とは一より始め十に行き十より帰る元のその一」。虚心、これが修行の要諦なのだ。
2018/02/24
錬心抄 174号 3月号
「いまといういまなるときはなかりけり まのときくればいのときはさる」

時間の流れは絶え間ないもので、今現在も、時間は流れている。
「いま」という一瞬の間だけでも、「ま」を言った時には、すでに「い」を言った時間は過ぎ去ってしまっている。だから、「いま」と言う時間はない。 武術の稽古はこの一瞬の間を学ぶことである。身体にこの間を教え込んでいく。「取り」と「受け」を交互に繰り返し、仕掛けられた攻撃を受け、かわして攻撃に転ずる。その瞬間の身体の反応を、繰り返して感じ取っていく。理屈ではない。これはもう道場で仲間たちと学ぶしかない。「さしあたるそのことのみをただ思え 過去は覚えず未来は知られず」。普段の生活のなかでは、あまりくよくよ考えずそのことだけをやればよし。一瞬に全力投球、これが人生の要諦なのだ。

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