平成13年4月20日(146号)
義経は生きていて、樺太から中国へ渡り、蒙古の「蒼き狼」・ジンギス汗になったんだ、という説が、徳川埋蔵金伝説と同じように、大正から昭和の始めごろ、真剣に論じられていたそうである。高校生の時、高木彬光の「成吉思汗の秘密」という推理小説を読んで、こんなこともあるのか、と衝撃を受けた。やっぱり「牛若丸=義経」は、日本人には特別な人なのだ。少年の頃の記憶では、牛若丸が義経となって、最後、兄・頼朝に殺されるというのは、どうしても許されるものではなかった。死ぬのはいつも悪い人なのに、牛若丸はどうして殺されるのか、納得いかないのである。京の五条の橋の上で、生涯を共にする弁慶との出会いに胸を踊らせ、壇の裏の合戦での超人的な活躍に歓喜。この人の力で、源氏を再興したのに、兄・頼朝の勘気にふれ、奥州の平泉で最期をとげる。そんなストーリーで、芝居でも、映画でも、テレビでも「義経」は、悲劇のヒーローなのだが、くやしいーのである。あの牛若丸を殺してしまうなんて、許せない、と幼い正義心は燃えたぎっていたのである。ところが、それが生きていた、という話なのだから、これはもう徳川埋蔵金の比ではない。東北のあこちにある「義経伝説」は、海を渡り北海道へ。それがオーホツク海の果てで、杳として、消息がわからなくなっている。ジンギス汗が生まれた時期と、義経が討たれた時期は、まったく同じ頃。「元」という国の名前は「源氏」からきている、という。こんなことは、こじつけられるかもしれない。ところが、その他あまた、一致することが奇妙に多いのだ。モンゴル王朝の紋章は桔梗で、源家の家紋もそうらしい。「成吉思汗の秘密」という小説では、高木彬光は、自分の分身として、名探偵神津恭介を登場させ、それをひとつひとつ解きあかしていく。どうしてこんなにぴったり符合しているのか、ただただ不思議なのである。ジンギス汗は、戦闘には白旗を旗印に使っている。源氏の白旗は、平家の赤旗とともに有名だ。ジンギス汗というのは漢字では、成吉思汗、と書き、「吉成りて水干を思う」と読む。「汗」という漢字、サンズイを水とし右辺を干とする。「水干(すいかん)」といのは、昔の服装の一種である。頼朝に追われ吉野に逃れた義経はそこで、妻の静御前と別れる。「吉野山にあって、水干を着ていた静御前を思う」、という意味だ、と探偵・神津恭介は断定するのである。そんなことが本当なのかどうか文献は何も残っていない。荒唐無稽な義経伝説がまことしやかに語られているのは、この人の一生はあまりにも、悲劇的であり、兄に疎んじられドマティックな最期を遂げるという、芝居よりも芝居らしいからだろう。NHKの大河ドラマ「北条時宗」では、蒙古襲来まで、あと3624日と、そのジンギス汗の曾孫あたりになるフビライが、日本を襲ってくる日を刻んでいく。実は、フビライは決して日本を襲うつもりでなく、曾祖父の「ジンギス汗」の生まれた国、日本を訪れてみたいと思っただけだったのだ。ところが、源氏の政権を奪い取った北条一門は、そうは取らなかった。「元」の国と「源氏」は関連があると、当時の為政者たちは知っていたのだ。義経の子孫たちが、日本を襲う、とあわてふためいて、北条時宗は、蒙古の使者を惨殺してしまい、フビライの怒りを買ってしまった。蒙古の国王は故郷に帰りたかっただけだったのに、である。意外と、こんな話の方が、歴史の事実を語っているのかもしれない。 |
平成13年4月6日(145号)
昭和29 年に封切られた、黒澤明の名作「七人の侍」のストーリーは、三人の脚本家(黒澤明・橋本忍・小国英雄)たちが旅館にこもって、何ヶ月もかかって、作りあげた。百姓たちが侍を雇って、野武士の集団を壊滅させた、という古い文献がヒントだったという。そもそもこの脚本の発端は、江戸の中ごろの侍の一日を克明に描き、その主人公がヒョンなことからある事件に巻き込まれ、切腹しなければならなくなる、というような話を作ろう、と始まったんだそうだ。ところが、五〇年も前の日本の歴史文献には、当時の侍たちの生活ぶりが、まったく記述されてなくて、行き詰まってしまった。(評伝黒澤明・堀川弘通著より)。何時に起床し、何を食べて、藩ではどのような仕事をし、昼の食事はどんなものをとっていたのか、日常の侍の一日というのは、どの文献にも記録がなかったのである。黒澤明監督は、その脚本をあきらめて、別の資料をとり入れ、名作・「七人の侍」が誕生した。◆NHKの大河ドラマ「北条時宗」で、父親の北条時頼を演じている俳優の渡辺謙が、「この時代の文献がまったく存在しないので、かえってやりやすい」と、何かの番組で語っていた。鎌倉時代となると、侍の日常の記録など何も残っていない。この第五代執権時頼は、水戸黄門のようにあちこち旅をするのが好きだったというのも、為政者の廻国伝説のひとつといわれていて、真偽はわからない。時頼は、出家し、嫡男時宗をつれて旅をする。道に迷い、あるあばらや家に一夜の宿を乞う。そこの主はみずしらずの旅の僧を秘蔵の盆栽の「鉢の木」を惜しげもなく火にくべて暖をとらせた。テレビでは、そこの主人を、「あんたあの娘のなんなのサ」の、宇崎竜童が演じていた。どこかで聞いたような話だな、と思っていたら、浄瑠璃や歌舞伎で演じられている「鉢木物語」である、ということがあとで分かった。この逸話は、フィクションらしいが、「いざ鎌倉」という言葉とともに知られている。これが鎌倉時代、北条時頼にまつわる話だったとは正直思いいたらなかった。このあばら家の主人は、佐野源左衛門という武士で、一族のものに領地を騙し取られ、落ちぶれてはいるが、「今に鎌倉にて一大事あらば、一番ではせ参じる覚悟」と、旅僧が五代執権・時頼とは知らず、その心意気を語る。それからしばらくして、鎌倉から各地の大名・小名に召集がかかった。これを聞いた佐野源左衛門は「よれよれたるやせ馬」ではせ参じる。一番貧弱ないでたちは、美々しく装った武士たちの中では、いやでも目立った。「そこの見苦しき武者を前へ」と、突然御前に召された佐野源左衛門は目の前にいる入道をみて驚いた。あのときの旅僧ではないか。時頼は、「このたびの召集は、あの時の言葉は本物かどうかためすためにおこなったが、そのとおり痩せ馬ではせ参じたそちの忠誠心は見事」、と褒め称え、あわせて「鉢の木」の礼をいった。この話は、能の世阿弥が作ったといわれている。歴史は、オーバーなエピソードやデフォルメされた逸話で伝えられている話の方が、時代をよく映し出していて、面白い。時頼は名執権と評され、
37歳でこの世を去っている。 |